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国宝・松本城とその前身の深志城の歴史について【長野】

松本城

松本城は信濃守護の小笠原氏が林城の支城として築城したと伝わります。初めは深志城と呼ばれていました。

いちのまる
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深志城は歴史シミュレーションゲーム・信長の野望で武田信玄の城として登場するので名前は知っていましたが、松本城の前身だったとは知らなんだ。

私は信長の野望が大好きで子供のころからよくプレイしていました。群馬県出身なので西上野(西毛)の長野家で始めたものです。長野家は越後(新潟)の上杉謙信と同盟関係にあるので、直近の敵は西の武田信玄か南の北条氏康になります。

両大名ともラスボス級の強さを持っているのですが、まだ武田家のほうが幾分攻略し易いため信濃(長野)、甲斐(山梨)方面に向かうことになります。武田家の深志城は『そこそこ大きい城&交通の要所』だったので、ここを攻略すれば序盤を乗り切ることができました。そのため深志城の名前が強く記憶に残っているのでしょう。

さて、前置きはこれくらいにして。松本城の歴史をざっくり振り返っていきましょう。

 

松本城の場所

長野自動車道の松本ICを松本方面へ下ります。突き当りまで進み左折すると松本城に到着です。駐車場は『市営・松本城大手町駐車場』が便利だと思います。千歳橋の信号を超えたところに看板がありました。

 

松本城の歴史

松本城

1550年、甲斐の武田信玄が小笠原領に侵攻。信濃国守護・小笠原長時は林城・深志城を信玄に奪われ追放されてしまいます。深志城は武田氏の支配下に置かれ、林城は廃城となり、深志城が長野北部の重要拠点に。

1582年、武田氏は織田信長によって滅亡。信長は木曽義昌に深志城の城代を任じています。

同年、信長が本能寺の変で横死すると旧織田領地の奪い合いが始まります。どさくさ紛れに旧領主の小笠原氏(洞雪斎)が上杉景勝の援護をもらい木曽義昌を追い払います。その後、同族の小笠原貞慶が徳川家康の支援を得て深志城を奪い取りました。

この辺りで松本城に改称したようです。

貞慶は豊臣秀吉の家臣になりますが、奉公構(刑罰を受けた)の武将を匿っていたことが判明し改易になってしまいました。

 

松本城

その後、豊臣家臣の石川数正(もともとは徳川の重臣だった)が入城し、松本城の天守を築き、城下町の整備を行いました。1613年、数正の息子・康長が大久保長安事件で改易になると小笠原秀政(貞慶の長男)が入城します。

めでたく旧領に戻った小笠原秀政ですが、しばらくして国替えに……。

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小笠原さん本当にかわいそうです……。旧領にこそ戻れませんでしたが、子孫は北九州の小倉藩主として廃藩置県まで活躍しています。

江戸幕府が開かれた後は水野氏、戸田松平氏の居城となりました。

 

終わりに

松本城

徳川幕府が滅び、明治時代になると新政府によって廃藩置県が行われます。この頃になると城の存在意義がなくなり日本各地で城の取り壊しや払い下げが行われます。松本城も例外ではなく売りに出され一時は破壊される予定でした。

『松本城を壊されてたまるものか!』と地元の名士・市川量造が有志とともに募金を募ります。無事、買い戻しに成功したため破棄を免れ現在に至ります。

1936年(昭和11)、旧国宝に指定。これは1929年(昭和4)に制定された国宝保存法による指定です。戦後、1950年(昭和25)に制定された文化財保護法により1952年(昭和27)に国宝の指定を受けました。日本には5つの天守が国宝に指定されています。

松本城以外の4城は↓

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