新田義貞の龍神伝説が残る稲村ヶ崎へ!幽霊の根拠はいろいろありそう…。

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎といえば鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ新田義貞の龍神伝説にまつわる土地である。

各切通しから鎌倉に攻め入ろうとした新田義貞であったが、鎌倉の天然要害に籠る死に物狂いの幕府軍の抵抗に攻めあぐねていた。

南方に位置する稲村ヶ崎は大軍が通り抜けられるほどの広さは無く、そこは逆茂木の罠や船からの攻撃によって難攻不落であった。

太平記10巻にその場面が残されているので、引用しよう。

南ハ稻村﨑ニテ沙頭狹キニ浪打涯ニテ逆木ヲ繁ク引懸テ澳四五町カ程ニ大舩共ヲ並ヘテ矢倉ヲカキテ横矢ニ射サセント構タリ誠モ此陣ノ寄手叶ハテ引ヌランモ理也ト見給ケレハ義貞馬ヨリ下給テ甲ヲ脱テ海上ヲ遥々ト伏拝ミ龍神ニ向テ祈誓シ給ケル

(中略)

真ニ龍神納受ヤシ給ケン其夜ノ月ノ入方ニ前々更ニ干ル事モ無リケル稻村﨑俄ニ二十餘町干上テ平沙渺々タリ横矢射ント構ヌル數千ノ兵舩モ落行塩ニ被誘テ遥ノ澳ニ漂ヘリ不思議ト云モ無類

(中略)

江田大舘里見烏山羽河山名桃井ノ人々ヲ始トシテ越後上野武蔵相模ノ軍勢共六萬餘騎ヲ一手ニ成テ稲村ヵ﨑ノ遠干潟ヲ真一文字ニ懸通テ鎌倉中ヘ亂入ル數多ノ兵是ヲ見テ後ナル敵ニ懸ラントスレハ前ナル寄手迹ニ付テ攻入ントス前ナル敵ヲ欲防ト後ノ大勢道ヲ塞テ欲討ト進退失度東西ニ心迷テ墓々敷敵ニ向テ軍ヲ至ス事ハ無リケリ

太平記 10巻より

南は稲村ヶ崎、砂浜が狭まっている波打ち際に逆茂木がたくさん置いてあり、敵は沖の4、5町程の距離に大船を並べて矢倉から横矢を射ようと構えていた。『この陣の攻め手が退いてしまうのも理解が出来る。』と新田義貞は馬から下り兜を脱いで海上を遥々と平伏し龍神に向かって祈った。

(中略)

本当に龍神が願いを受け入れたのだろうか?その夜の月が入る方にそれまで干上がることの無かった稲村ヶ崎は突然に20町ほど干上がって果てしない砂浜が広がった。横矢を射ようと構える数千の船は潮に誘われ遥か沖に流された。こんな不思議なことはかつて無かった。

(中略)

江田、大舘、里見、烏山、羽河、山名、桃井の人々を始めとして越後、上野、武蔵、相模の軍勢6万余騎が一団となって稲村ヶ崎の干潟を真一文字に駆け抜け鎌倉に乱入した。これを見て後ろの敵にかかろうとすれば前の攻め手が、前の敵から守ろうとすれば後ろの大勢が道を塞いで討とうとする。進退窮まった幕府軍は心迷ってまともに戦うことが出来なかった。

流石に20町(2000mくらい)もの引潮があったとは考えにくいが、稲村ヶ崎の攻略を切っ掛けに鎌倉攻めが成ったとされる。

これには諸説あって『大干潮は起こるはずはなく、極楽寺坂を突破し鎌倉市街に雪崩れ込んだ。』と云う説もあるようだ。

 

稲村ヶ崎の場所

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎公園は江ノ島電鉄の稲村ヶ崎駅から徒歩10分程の距離にある。

駅を左に出て突き当りを左、その後右に曲がると稲村ヶ崎駅入口の信号にぶつかる。

信号を左に曲がると右奥に稲村ヶ崎が見える。

 

 

稲村ヶ崎と心霊

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎には幽霊出没の噂がある。

どんな幽霊が出るのか私は見えないし感じもしないので知る由もないけれど、どうやら根拠は無きにしも非ずのようだ。

以下に紹介しよう。

 

鎌倉攻めと極楽寺橋の人骨

一番古いのは新田義貞による鎌倉攻めであろう。

古戦場なので当然それなりの兵士が戦死している。

昭和34年晩秋、極楽寺橋付近の造成現場で、鎌倉時代末期の武士ものと見られる多数の人骨が発見されました。発掘調査の後、鎌倉時代の人々を知るための貴重な研究資料として、その多くは東京大学人類学教室に運ばれました。

鎌倉市教育委員会 鎌倉時代の出土人骨の埋葬について

稲村ヶ崎公園から100~200mの距離にある極楽寺橋付近で武士のものと見られる人骨が見つかった。

詳細は分からなかったが、刀傷や刺傷が骨にあったのだろう。

以前、記事にした材木座海岸でも似たような人骨が発掘されている。

 

明治時代のボート事故

稲村ヶ崎

1910年(明治43)1月23日、逗子開成中学の生徒が乗船するボートが転覆。12名が遭難し全員が亡くなった。

同年1月28日の読売新聞によると遺体が全て発見されたのは27日の事で、この日に上げられた遺体の顔面は酷く水膨張し、魚に突かれ極めて判別が難しい状態だったと云う。

漂着した遺体はどれも上着やズボンを脱いであり、手足は泳ぐ形のまま凍え死んでいた。ボートが転覆した後、覚悟を決め陸を目指そうとした証拠であった。

下調べをしないで訪問したため写真に収められなかったが、稲村ヶ崎にはこの事件に関するボート遭難碑が安置されている。

ボート遭難碑には2人の男子の像が載せられている。

この2人は年の離れた兄弟で、21歳の兄が11歳の弟を背負ったまま亡くなった姿をモチーフとしている。

 

特攻兵器・伏龍の基地

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎の断崖には第二次世界大戦末期に考案された特攻兵器・伏龍の基地跡が残っている。

伏龍は潜水服を着用した兵士が酸素ボンベを担ぎ、棒の付いた機雷で敵艦を直接爆破するという、『とんでも特攻兵器』だ。

伏龍が実戦に投入される前に戦争は終わったけれども、無謀な訓練によって多数の死者を出した。

恐らくこの基地で死者は出ていないと思うが、戦争遺構というだけで心霊の噂が立つこともあるので根拠の一つに数えた。

 

断崖からの飛び降り

稲村ヶ崎

過去の新聞を調べてみると2件の投身が確認出来た。

ネットでこの件について検索すると『ひとりで悩まないで』的な注意喚起の掲示物の画像が見つかるため名所とまでいかないだろうが、それなりに事件が起きているのだろう。

この程度の高さだと大怪我した挙句、荒波に飲まれ身動きが取れずに溺れ死ぬ、悲惨な最後を迎えることになると思う。

ここからの飛び降りは全くおすすめできない。

 

終わりに

稲村ヶ崎

鎌倉には多くの心霊スポットが点在している。

それは人間の濃い歴史が反映された土地だからに違いない。

幽霊云々と噂されている場所の過去を調べてみると思いもよらぬ出来事が眠っている可能性がある。

あまり好い趣味ではないかもしれないが、負のイメージから歴史を紐解くのもなかなかに面白い。

コメント

タイトルとURLをコピーしました