鎌倉市指定有形文化財の『石造 宝篋印塔(文和五年銘)』。
通称、泣塔。
宝篋印塔は墓や供養塔の意味を持つものや現世利益を祈願するために建てられたものがある。
願主行浄 預造立 石塔婆 各々檀那 現世安穏 後生善処 文和五年申丙二月廿日 供養了
現地案内板より引用
願主の行浄が石の仏塔を預かり建てた。
各檀家の現世での安穏と後世での善処を願う。
1356年(文和5)2月20日に供養した。
洲崎の古戦場について
この辺りは新田義貞による鎌倉攻めの一環で争われた洲崎古戦場に位置している。泣塔から直線距離で200m程の場所に上の石碑が安置されていた。
洲崎の戦いはかなり激しい戦いだったようだ。その様子が太平記に残されているので引用する。
懸ケル處ニ赤橋相模守今朝ハ被向タリケルカ此陣ノ軍剛シテ一日一夜ノ其間ニ六十五度ニテ切合タリサレハ數萬騎有ツル郎從モ討レ落失ル程ニ僅ニ殘ル其勢三百餘騎ニゾ成ニケル
太平記 巻第十 赤橋相模守自害事付本間自害事より
赤橋(北条)守時は鎌倉幕府第16代執権。鎌倉幕府最後の執権である。巨福呂坂切通の守将として新田軍と激しい戦いを繰り広げた。
太平記によると守時はこの戦いの最中に腹を十文字に割いて自刃したと記されている。そこには複雑な事情があった。執権という幕府内で強大な権力を持つポジションにいたが、実権は長崎円喜・高資父子や北条高時によって握られていた。
守時の同母妹に赤橋登子がいる。彼女はこの直後に室町幕府を開く足利尊氏の正妻である。
鎌倉幕府は西国の討幕軍を鎮圧するため足利尊氏に上洛の命を下した。しかし尊氏は道中で幕府に反旗を翻しそのまま六波羅探題を攻め滅ぼした。
尊氏上洛の際に妻・赤橋登子と嫡男の千寿王(足利義詮)は人質に取られたが、混乱に乗じて鎌倉を脱している。幕府の厳しい監視から易々と逃げ切れるとは想像し難い。この脱出には守時の関与があったという説もある。
洲崎の戦いで殆どの兵を失った守時は退却を考えなかった。
『六波羅探題を滅ぼした大謀叛人の足利尊氏が義弟であり、その妻であり実妹の登子を逃がした私がどうして戻れようか?』と自害を決意したのかもしれない。
終わりに
泣塔は鎌倉攻め(洲崎の戦い)の戦死者を弔うための二十三回忌法要で建立された宝篋印塔だとされている。
宝篋印塔の背後にはやぐら(鎌倉特有の墳墓)があり数基の五輪塔も納められているそうだ。
『泣塔』の名前は、この塔を手広の青蓮寺に移したところ、夜な夜なすすり泣く声が聞こえたため、元の場所に戻したことに由来するなどといわれています。
現地案内板より引用
泣塔の周辺は悉く開発されているが、この小丘だけは手付かずで残存している。
コメント