茨城県龍ケ崎市の旧竹内農場赤レンガ西洋館跡。
1920年(大正9)に建てられた竹内明太郎の別荘である。
まずは竹内明太郎について紹介しよう。
竹内明太郎の父、竹内綱について
竹内明太郎は土佐藩士の竹内綱の長男として1860年(万延1)3月20日に現在の高知県宿毛市で生まれた。弟に内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)を務めた吉田茂がいる。
竹内綱は土佐藩の後藤象二郎や板垣退助と共に幕末から明治にかけて活躍した政治家、実業家である。板垣退助が遭難にあった『板垣死すとも自由は死せず』で有名な岐阜事件の際にも同行していた。
政治家を退いてからは実業家となり息子の明太郎と共に鉱山業などに携わった。
竹内明太郎と赤レンガ西洋館
竹内明太郎は鉱山事業のため竹内鉱業株式会社を設立。
彼の事業活動は多岐に渡り、その実績は現代まで脈々と受け継がれ、日産自動車や小松製作所などの日本を代表する企業へと繋がっている。
旧竹内農場赤レンガ西洋館は竹内農場内に建てられた明太郎の別荘である。竹内農場は北茨城市に存在した茨城無煙炭鉱株式会社の労働者の食糧を供給する役目を担った。
渋沢栄一が深い関わりを持った日本煉瓦製造株式会社のレンガで造られた地上2階、地下1階構造の建物であった。
その後の赤レンガ西洋館
現地の案内板によると、明太郎本人が利用したのはほんの数年で、その後は弟の竹内直馬に受け渡され1932年(昭和7)まで直馬一家が居住していたそうだ。
一家が立ち退いた後は農場の関係者が管理していたが、空家になっていたため監視が行き届いておらず金目の物は殆ど盗まれてしまったと云う。防犯の意味を込めて家を持っていない家族に無償で貸し出しをしていたが、最後の居住者は1952年(昭和27)頃にここを去った。
それから数十年間、完全に放置され朽ち果てる一方であった。
2015年(平成26)に土地の所有者が変更されるに当たって龍ケ崎市が保全のために立ち上がった。またNPO龍ケ崎建造物保存会も旧竹内農場赤レンガ西洋館を守るためにいち早く保存活動を開始している。
理解ある方々の努力によって旧竹内農場赤レンガ西洋館は取り壊されることなく史跡として残される事となった。
こちらの文章はNPO龍ケ崎建造物保存会の竹内明太郎別荘(旧竹内農場赤レンガ西洋館)を参考にさせていただきました。大変興味深いサイトを運営されているので興味のある方は一度読んでみて下さい。
終わりに
旧竹内農場赤レンガ西洋館 現地案内板より
旧竹内農場赤レンガ西洋館には心霊スポットの噂があるようだ。
ここで事件や事故が発生した記録は見つからなかった。
その敷地はまるで西洋館の存在を隠すがごとく藪が覆い、半世紀以上が経過し、人々の記憶の中からも消えてしまいました。
NPO龍ケ崎建造物保存会の竹内明太郎別荘(旧竹内農場赤レンガ西洋館)より
放置されていた時代に若者の内で『草むらの中に不気味なレンガの廃屋があるから肝試しに行ってみようぜ!』みたいな話が出て、それが心霊スポットの噂に繋がっただけではないかと憶測している。
果たして本当に幽霊が出るのだろうか?甚だ疑問である。
コメント