河口湖と西湖を隔てる鳥居峠に穿たれた文化洞。
旧文化洞トンネルや文化洞隧道とも呼ばれるが、正式名称は文化洞だと思われる。『大正洞門或は文化洞と稱し』と記載する書籍もあった。
南都留郡郷土誌によると竣工は1921年(大正10)9月。
ハ、隧道は、高さ、圓形の中央にて三米、巾二米、長さ九九……(内巻立の分七二米)
二、名稱
東口 文化洞
西口 第一境
命名者、時の郡長○○○○
筆者、寶村、○○○1938年(昭和13)発行 南都留郡郷土誌 文化洞の事より
とある。
1993年(平成5)に文化洞トンネルが開通したため文化洞は現役を退いた。
私が調べた限りでは文化洞について書かれた書籍の中で最も古かったのは竣工の翌年に発行された『庭園』であった。
長濱村と西湖村との間に小山脈があつて鳥居峠と呼んで居るが峠といふ名には相應しくない程の低い坂である。此の坂の中腹をくりぬいて隧道を造り文化洞と名づけて居る。此のトンネルを南にぬけると其處に又一つの湖水が漫々と水を湛へて居る。西湖(にしのうみ)といふのがこれだ。
1922年(大正11)10月発行 日本庭園協会 庭園 第四巻第十号より
景勝地として知られていた場所だからか、この他にも幾つかの古い観光系の書籍で紹介されている。
文化洞の意味について
トンネルの名前の由来が気になったので調べてみた。
へ、現在の狀況
往古より通行せる鳥居坂舊道を想起し全く隔世の感あり。文化的進歩の恩惠は一般村民の感謝する所なり。公私産業上に影響する利益また頗る大いにして、敎育の上に文化の上に、その他あらゆる方面に及ぼせる影響もまた大いなるものあり。
1938年(昭和13)発行 南都留郡郷土誌 文化洞の事より
トンネルの掘削は歴史を変えた文化的進歩であり多方面に素晴らしい影響を及ぼした。これが文化洞の名称の由来になっているのだろう。
また、日露戦争の鴨緑江の戦いの記録を残した書物に『文化洞』の名称がある。西寛二郎率いる第二師団が文化洞の近くに軍橋を架けて渡ったいう内容であった。文中の文化洞は現在の中国と北朝鮮の国境付近にあったのだろうが正確な位置は定かでない。
この文化洞と山梨の文化洞に繋がりがあるかどうか分からないが、日露戦争とトンネルの竣工年がそれほど離れていないので、案外関係があったりするのではないかと思って紹介した。
(たぶん、関係ないだろうな……。)
終わりに
東口と西口の坑門で扁額の表記が異なっている。西は『第一境』、東の扁額は『文化洞』と刻まれている。
大正年間に穿たれた土木的価値の高いトンネルだと思うが、残念なことに両坑門ともコンクリートで閉ざされてしまった。
崩落の危険性のあるトンネルを放置できないし、また心霊の噂を聞きつけて招かざる客が騷いだり荒らしたりする恐れを想定すると完全封鎖は懸命な判断なのかもしれない。
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