武田氏滅亡の地に訪れて。侍女16名が殉死したと伝わる姫ヶ淵…etc.

姫ヶ淵

姫ヶ淵は武田勝頼の継室(北条夫人)に付き従った侍女が身を投じた場所と伝わる。

現地には激流の大渦を背景に北条夫人と16名の侍女が描かれた慰霊碑が置かれている。

夫人が侍女たちに最期の指示を与えているシーンであろうか。

周辺には姫ヶ淵の他にも武田氏滅亡に因む場所が幾つか点在しているので紹介しよう。

 

日川(三日血川)

姫ヶ淵

姫ヶ淵のある川の名前を日川と呼ぶのだが、これには三日血川という異名がある。

この異名は主君である武田勝頼に最後まで付き従い殉死した土屋昌恒(惣蔵)に関係している。

『土屋昌恒は主君を守るため崖道の狭所に陣取り、片手は蔓に掴まりながら迫りくる敵兵を切り伏せ谷底へ突き落したため、川の水は3日間も赤く染まったままだった。』という逸話が基になっている。

信長公記や甲陽軍鑑に土屋昌恒の奮戦が記されているものの『片手切』の描写は無かった。

私は時間の都合上訪問出来なかったが、日川上流に土屋惣蔵片手斫遺蹟の石碑と説明板が置かれている。

 

四郎作古戦場跡

姫ヶ淵

四郎作古戦場の碑。

背面には忠義の将・小宮山友晴を称える言葉が書き綴られていた。

小宮山友晴は百足衆(伝令役)の一人で、武田家中で重要な役割を担った武将である。武田氏は古くから仕える百戦錬磨の武将たちを長篠の戦いで失ってしまったため軍政の中枢はガラリと変わっていた。

信玄を間近で見ていた友晴は思うところがあったのだろう。彼は新体制に対して迎合することなく自身の意見をしっかりと述べたそうだ。勝頼に侍る重臣たちは当然快く思わない。やがて讒言する者が現れ、真に受けた勝頼の勘気を被り友晴は蟄居を命ぜられてしまった。

さて、勝頼は織田・徳川連合軍に追い詰められ天目山へ辿り着いた。ここに至るまで多くの重臣たちは裏切る者もあれば逃げ落ちる者もあった。しかし忠臣・小宮山友晴は違った。蟄居中であったにも拘らず友晴は勝頼の窮地に駆け付け天目山で主君に殉じたのである。

三代相恩の御主の御目をあて候はんや、又御目をちがへ候はんや、其仔細は、御用に立まじきと思召我等をば押籠て置給ふに、御供仕り候へば御屋形の御目をちがふる道理なり、御目をあて我等爰をはづし候へば武士の義理にそむく、所詮辱なき事もなきに御供申べきと申さるゝ、土屋惣蔵秋山紀伊守を始め各〱涙をながして小宮山内膳をほむるはことわりなり。

甲陽軍鑑 品第五十七より

いちのまる
いちのまる

残念ながら私の能力では訳せませんでしたが、甲陽軍鑑に小宮山友晴が勝頼のもとに参上して語るシーンがありましたので引用しました。

『代々の恩義があるので蟄居の身だが、ここで参上してお供しなければ武士の道に反すると思い馳せ参じた』みたいな感じでしょうか。

鳥居畑古戦場跡

姫ヶ淵

鳥居畑古戦場の碑。

私はこの古戦場跡に立ち戦国の古の習いとは云え、先人の歩んだ苦難の道を思いおこし尊い血を流し、戦死された方々の霊のただよう三日血川のほとりに、お慰め出来る事ならと思ひ供養碑をたてる事に致しました。供養碑を建設するに当り、ご協力くださった方々に深く感謝の意を表します。

鳥居畑古戦場 案内板より抜粋

武田氏滅亡の戦場に建てられた慰霊碑である。

織田勢の滝川一益に居場所を悟られ追い詰められた武田勢は御供の女、子供を殺害し、男たちはそれぞれ敵に挑みかかり討ち死にした。

この戦いで武田勢は41名の侍分、50名の上臈達女が死亡したと信長公記に記されている。

歴々討死相伴の衆、

武田四郎勝頼・武田太郎信勝・長坂釣竿・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・跡部尾張守・同息・安部加賀守・土屋右衛門尉、りんがく、長老中にも比類なき働きなり。

已上、四十一人侍分、五十人上臈達女の分。

信長公記 巻十五より

 

首洗い池

姫ヶ淵

この雨沢口に湧く清水の池は武田勝頼公父子の首を洗った所と言われています。

現地案内板より

注ぎ口の下に武田の家紋が彫られている。

柄杓が置いてあったので飲めると判断して湧き水をいただいた。

7月初旬の訪問で気温はそこまで高くなかったと記憶しているが、散策がひと段落ついてからの水分補給だったため、とりわけ美味しく感じた。

 

景徳院

姫ヶ淵

景徳院は、甲斐国に入った徳川家康がこの地で戦没した武田一族や家臣たちの霊を弔うために建立させた寺院である。

四郎作古戦場項で紹介した忠臣・小宮山友晴の弟と伝わる倀因(ねんきょう)を開山とした。当初は田野寺という名称だったらしいが、いつの頃からか景徳院と呼ばれるようになった。景徳院は武田勝頼の戒名に由来している。

境内には武田氏滅亡に関わる史跡が残されているので紹介しよう。

 

没頭地蔵尊

姫ヶ淵

没頭地蔵尊は首無地蔵とも云われているそうだ。勝頼・信勝父子、北条夫人を葬った場所と伝わる。

地蔵尊の傍の石碑に3名の辞世の句が刻まれていた。

おほろなる 月のほのかに 雲かすみ はれてゆくゑの 西の山の端

勝頼公

仇に見よ 誰も嵐の桜花 咲きちるほどの 春の夜の夢

信勝公

黒髮の 乱れたる世そ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒

北条夫人

いちのまる
いちのまる

信勝公の句の『咲きちるほど』は、原文の理慶尼記では『さきちるほど』に見えます。くずし字だったので確かなことは言えませんが。

 

生害石

姫ヶ淵

姫ヶ淵

姫ヶ淵

武田勝頼・信勝父子、北条夫人が自害した場所と伝わる生害石。

勝頼・信勝父子の首は滝川一益によって織田信忠の目にかかった後、織田信長のもとへ渡り、最後は京都にて晒されたと云う。

 

武田勝頼の墓

姫ヶ淵

中央の背の高い宝篋印塔が武田勝頼、向かって右の五輪塔が北条夫人、左の五輪塔は武田信勝の墓で、両脇の縦に長い石碑は殉難者の供養塔である。

勝頼の宝篋印塔の側面に刻まれた文言から石塔は二百回忌の際に建立されたことが分かっている。

平成年間に行われた保存修理事業に伴う発掘調査では基壇の中から5000点を越える経石が出土した。骨や武具等の遺物は出土していないとのこと。

 

終わりに

姫ヶ淵

武田勝頼・信勝父子が死亡してから約3ヶ月後に本能寺の変が起こり織田信長・信忠父子はその生涯を閉じる。

その後、織田氏は信長が寵愛した豊臣秀吉に引き継がれ(乗っ取られ)、やがて秀吉が天下を統一する。秀吉死後、かつて勝頼の父・信玄に戦々慄々としていた徳川家康が天下を牛耳り、凡そ260年に亘る太平の世を築いた。

ほんと、激動の時代である。

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