かつては幽霊橋と呼ばれていた?いわき市の高麗橋の歴史について 

高麗橋

福島県いわき市、磐城平城跡の真東に架かる高麗橋。

1924年(大正13)3月26日の常磐毎日新聞に高麗橋の由来が書かれている。『江戸時代、この場所には高麗門があったと伝わる。それゆえ当地の土木委員会が高麗橋と呼んだ』といった内容である。

それよりも興味深いのが、高麗橋と名付けられる前の俗称だ。どうやらこの橋は幽霊橋と呼ばれていたらしい。その理由は架設工事で何回も橋梁が崩落したからだという。そこに犠牲者がいたかどうか知らないが、幽霊というくらいだからもしかしたら犠牲者があったのかもしれない。

心霊スポットの噂が立った理由として『幽霊橋の呼び名』は十分に説得力がある。

ただ他にも根拠になりそうな歴史や言い伝えを発見したので、紹介しよう。

 

高麗橋

城郭系心霊スポットの根拠としてよく見られるのは合戦と人柱の存在だと思う。

合戦なら『島原・天草の乱の原城』や『悲惨な兵糧攻めを受けた鳥取城』、人柱なら『踊り子の人柱・松江城』『豆腐屋の丸亀城』あたりが著名だろうか。

調べて行くうちに磐城平城はどちらも該当することがわかった。

詳しく見ていこう。

 

磐城平城と合戦

高麗橋

磐城平城が合戦の舞台となったのは明治期の戊辰戦争である。

幕府の味方をした磐城平藩は板垣退助や大山巌などが率いる官軍の攻撃を受けた。中でも高麗橋の少し先にあった六間門で激しい戦いが行われた。

城中においては輜重、会計の士といえども銃をとって戦うが、城兵合せて四、五小隊に過ぎない。

官軍は外郭から本丸外壕に達し、屢々内門を破ろうとするが、城兵の必死の防戦で破れない。

ついに六間門(西方の間で追手門の外部に在る)に対し山砲をもって破壊射撃を行った。

ついに一弾は命中し、貫木は折れて扉は左右に開いた。

城内決死の士が飛び出して扉を閉じるとともに、米俵を積んで貫木に代えて官兵の突撃を免れた。

1968年(昭和43)発行 大山柏 著 戊辰役戦史 上 520頁より

その後、砲弾の尽きた幕軍は籠城を諦めて城に火を放ち北方へ退却した。

具体的な数字は分からないが、磐城平城を巡る戦いで官軍、幕軍ともに数十名の戦死者が出ている。

磐城平城と人柱

高麗橋

本丸と二の丸、三の丸を隔てる丹後沢と呼ばれる水堀がある。

丹後沢は菅波丹波という人物に由来する。

もともとは二の丸と三の丸の間を抜け北西に流出する大きな沼だったそうだ。磐城平城を築城した鳥居忠政は『堤防を築き水を貯えれば要害となる』と考えて工事を進めたが、どういう訳か上手くいかない。

占い師に卜してもらったところ『沼の主は大きな亀です。これが沼と繋がる川を行き来するからいけないのです。人柱を立てれば成就するでしょう』とのことであった。

忠政はこの言葉を信じ、領内の80歳以上の老人を募ったところ、菅波丹波が手を挙げた。このとき丹波は95歳だったという。忠政はこの申し出に酷く感謝し、それに応じて丹波は『私は、この世に未練はありませんから最後の奉公をいたしましょう。築堤に成功したならば、ここに丹後の名を付けていただければ幸いです』といって進んで人柱となったとのこと。

 

終わりに

高麗橋

六間門も丹波沢も高麗橋の近くにあるから、こういった事情が幽霊橋と呼ばれるきっかけになった可能性も無きにしも非ずかなと思い紹介した。

オカルトサイトを見てみると戊辰戦争で落城した際に橋から身投げした女性や子供の幽霊が出ると書かれていた。

私は幽霊が見えないから偉そうなことはいえないが、武士や兵隊、或いは老人(丹波)の霊が現れるといった方が歴史的にみると説得力がある気がする。

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