不動山トンネルに流れる心霊スポットの噂について

不動山トンネル

福島県いわき市内郷白水町を通る不動山トンネル。

東坑門から500m程の距離に福島県唯一の国宝建築物の白水阿弥陀堂がある。

名称:不動山トンネル

竣工年:1895年(明治28)

延長:145m

幅員:7.0m

『不動山』の由来は、願成寺の別院『高野不動尊』が関係しているのだろう。

見た目はありふれたトンネルだが、竣工年は1895年(明治28)とかなり古い。

歴史を振り返ってみよう。

不動山トンネル

不動山トンネルは道路用のトンネルではなく鉄道のために開通された。

この辺りは江戸時代から昭和期に賑わった炭鉱街だった。トンネルの西に石炭の積載場が設けられ綴駅(現・内郷駅)経由で江戸方面へ輸送されていたそうだ。炭鉱が衰退した後、道路用のトンネルに改築されたという訳である。

トンネルから少し離れた場所に石炭の表出を発見した片寄平蔵にまつわる碑文やみろく沢炭鉱資料館がある。地域の歴史を紹介する意味で片寄平蔵の碑文を引用しておこう。

片寄平蔵は文化一〇年、郡内大森村に生まれ、叔父利兵衛の養子となった。笠間藩御用達の材木商として江戸の明石屋渡辺右衛門と取引をしていたが、かねてより明石屋から石炭の重要性を教えられていた。たまたま平市の南を流れる新川において石炭塊を発見し、明石屋の鑑定証明をうけた。安政二年(一八五五)親友高崎今蔵とともに、下流にあるものは上流にあると信じ、白水川を遡って白水村にはいった。当時白水は湯長谷藩領であったので、芋ほり姿に身をやっして白水川を遡って探し求めているうち、遂に湯の嶽のふもと、白水川に面した弥勒沢において石炭の露頭を発見した。平蔵は里主大越甚六の仲介によって藩公の許可をうけ、一俵に付銀一匁の料金を納入して採炭に着手した。一六貫入の俵を馬につけて江名中之作港より江戸に送り、明石屋の手によって販売した。安政四年コールタール製造を工夫し、黒船用として三〇〇樽を作った。翌年幕府より石炭買上げの命を受けて、石炭御用となった。平蔵は横浜五丁目に石炭販売所を設け、絹糸、茶、石城産の延紙、椎茸を輸出して貿易の始祖となった。万延元年笠間藩主牧野公の支援を受けて年貢米、石炭の積出港として仁井田浦港を計画したが、同年八月三日病あらたまって江戸の牧野公の屋敷で急逝した。享年四八才。墓所は平市泉崎の光明寺にある。平蔵の開発した常磐炭田は、今や日本の四大炭田の一つとなり、日本経済に重要な役割をはたし、多大の恩恵を地域社会に与えている。開発一〇〇年の記念すべき年に、氏の功績を讃えて霊を弔う所以である

昭和三〇年六月

 

終わりに

不動山トンネル

不動山トンネルには心霊スポットの噂が流れている。

幾つかの理由が挙げられる。

・トンネルの上にある高野不動尊の存在

後日紹介する予定だが、高野不動尊にも心霊の噂があるから。

・炭鉱で栄えた街だから

心霊スポットを紹介するサイトではこの説が推されている。不動山トンネルに列車が走っていた頃、線路を横断しようとして轢かれて亡くなった方の幽霊が出るというのだ。事故が起きた可能性は十分に考えられるが、その裏付けを見つけることはできなかった。

・過去に存在した慰霊碑の存在

慰霊碑はトンネル西坑門側に流れる新川の川べりに安置されていた。2023年(令和5)9月に発生した台風13号によってこの地域はひどい水害を被ったのだが、おそらく増水した河川に流されてしまったのだと思われる。

何に対する慰霊碑だったのかは分からないけれども、心霊スポットの噂に関係していたのは間違いないだろう。

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