日本遺産の足利学校は日本一古い学校として知られています。
室町時代中期には日本各地から生徒が集まり兵法や易学など様々な学問を教える関東最大の学府になりました。江戸時代に平和が訪れ学ぶべき学問が変わると足利学校は徐々に衰退していき、古書を所蔵する図書館のような施設に変わりました。
明治5年に廃校。建物の一部は撤去されてしまったものの、有志による保存活動が行われ現在までその姿を残しています。
それでは足利学校を見ていきましょう!
足利学校へのアクセス&その他情報
北関東自動車道の足利ICを下りて右折し国道293号線へ。そのまま道なりに進むと青看板が足利学校まで案内してくれます。
駐車場は太平記館観光駐車場が近いのでおすすめします。駐車料金は無料です。詳細は下のマップをご覧ください。
入場料
個人一般:480円
高校生:240円
小中学生(市外):120円
未就学児は無料
受付時間
4月~9月:午前9時~午後4時30分
10月~3月 : 午前9時~午後4時
詳しくは足利市のホームページをご覧ください。
足利学校の風景

足利学校を散策してきましたので、写真とともに案内板を引用して紹介していきます。
入徳門
足利学校に入る最初の門です。
天保二年(一八三一)鑁阿寺安養院の火災により類焼、同十一年(一八四〇)頃修築、それも腐朽し、明治四十二年(一九〇九)に裏門を移転修築したと伝えられています。
『入徳』とは『徳に入る』という意味で、道徳心を習得する所、すなわち学校に入るという意味です。
扁額『入徳』は紀伊徳川家第十一代藩主大納言徳川斉順の書です。
足利学校の校門です。
入徳門をくぐった先に入場券の販売所があります。
学校門
日本で唯一の『學校』の額がかけられた門です。
寛文八年(一六六八)に建てられ、足利学校のシンボルとして江戸時代から今日まで受け継がれてきました。
『学校』という言葉は、儒学の教科書の一つである『孟子』の中にある言葉です。
扁額『學校』は、明の書家蒋竜渓の書を、江戸国史館助教授の狛高庸が縮小したものです。
現地案内板より
別のところに『學校』の扁額が展示されていました。いつ頃の扁額なんだろう。展示ケースの上にあった説明文をしっかりと読んでおくべきでした……。
旧足利学校遺跡図書館
足利市重要文化財 旧足利学校遺跡図書館(付属施設を含む)付 新築竣工図
この建物は、大正四年八月に建設されたもので、屋根は入母屋造桟瓦葺で、基礎及び外壁はレンガ積みをした上にそれぞれ石材や漆喰で仕上げてあります。
和風の屋根、洋風の外壁・内装など和洋折衷の様式やポーチの懸魚・蟇股・格天井などの造りや、飾り瓦(水煙)などに意匠的特徴の見られる大正時代の建築物として貴重な存在です。
足利学校保存整備事業の一環として、平成六年度県の『輝くまちづくり事業』により屋根を中心に改修しました。足利市重要文化財(建築物) 平成六年三月二十二日 指定
平成八年二月一日
(財)足利市民文化財団 足利市教育委員会現地案内板より
足利学校内で近代建築はこれだけかな。
図書館内部にも様々な展示物がありますが、撮影禁止なので画像はありません。
気になる方は足を運んでみてください。
字降松
足利学校の第七世庠主(校長)九華和尚のころのことです。
学生が読めない文字に出合ったとき、紙に書いてこれを廟前の松の枝につけておくと和尚がみて、ふり仮名や注釈をつけてくれたので、字振松と呼ぶようになりました。
当時学問を志して、足利学校に学んだ学生と庠主との交流が偲ばれ、心温まる足利学校の伝説です。
現地案内板より
『直接教えてあげればいいじゃん?』と一瞬思いましたが、校長という立場だから気軽に教えられなかったのかも。
教えてあげたいけれど立場上できなかったから『せめて松に付けられた紙(問い)くらい答えてあげよう』みたいな感じだったのかな。

校長先生の優しさ。
杏壇門
杏壇門は、明治二十五年近隣の火災で焼失しましたが、明治三十三年に再建されました。
現地案内板より
杏壇とは学問を教える場所のことをいいます。孔子の講壇の周辺に杏の樹があったことに因むとのこと。杏壇門をくぐると孔子廟があります。
孔子廟
孔子廟(聖廟)は、儒学の祖の孔子を祀る廟です。大成殿と杏壇門・築地塀からなります。
大成殿は、寛文八年(一六六八)の建造で、正面五間、側面六間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階と呼ぶ庇を付けています。
正面には、孔子座像、右側には小野篁座像を安置しています。
毎年十一月二十三日には、この聖廟で、孔子とその高弟を祀る釋奠が行われます。
現地案内板より
日本で釋奠(せきてん)の儀式が行われている場所はとても少ないです。足利学校以外には東京都文京区の湯島聖堂、大阪府藤井寺市の道明寺天満宮などで行われています。
孔子坐像
室町時代 天文四年(一五三五)
県指定文化財
寄木造 玉眼嵌入
像高 七八センチメートル頭巾をかぶり儒服を着けた像で、この姿は『行教像』といわれます。像の内側に墨書きがあり、当時の足利庄代官・長尾憲長(一五〇三~一五五〇)など造像に関わった人の名や、学校の様子が記されています。日本最古の孔子の彫像として大変貴重です。
現地案内板より
孔子の坐像です。
小野篁像
江戸時代延享三年(一七四六)
市指定文化財
寄木造 玉眼嵌入
像高 七一.五センチメートル小野篁(八〇二~八五二)は、平安時代の公卿・歌人で学問にすぐれ、野相公とよばれた人で、足利学校の創建者とする説があります。
木像の制作にあたり、小野篁の子孫がお金を足利学校に寄附した記述が『足利学校記録』にあります。現地案内板より
小野篁は『おののたかむら』と読みます。
足利学校の創設には幾つかの説がありますので後述します。
南庭園
足利学校には、方丈の北と南それぞれに池のある築山泉水庭があります。
この庭は、湧水をたたえた池の入り組んだ水際と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。
三つの峰をもつ築山は比較的高く、池に映えてよく調和しています。
発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって復原しました。(江戸時代中期の姿に復原)
現地案内板より
北庭園
奥の庭として、南庭園より格が高く、大きく、形式は南庭園と同じく築山泉水庭です。
池は、湧き水をたくわえ、亀の形の中島を置き、そこに弁天を祀る石祠があります。
築山が四つの峰からなります。
かつては鑁阿寺の森や遠くの両崖山の峰が借景になっていたと思われます。
発掘調査の結果、この庭は南庭園より古く、三回にわたって改修されたことが分かりました。(江戸時代中期の姿に復原)
現地案内板より
足利学校には2つ庭園があります。どちらも立派な庭園でした。これも学びのひとつ。
方丈
主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。
方丈は、六部屋からなり儀式や行事につかわれました。
現地案内板より
方丈の意味は一辺が一丈(約3m)正方形のこと。またそれくらいの大きさの部屋。維摩経に登場する維摩の居室が一丈四方だったことを由来に、禅寺の住職の居室を方丈と呼ぶみたいです。
内部には仏殿の間や尊牌の間(徳川歴代藩主の位牌が置かれている)が設けられています。
庫裡
庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、畳敷の四部屋からなり、日常の生活空間でした。
現地案内板より
学生や僧侶が日常生活を営んだ場所ですね。
内部は足利学校の歴史を紹介する展示場になっています。
衆寮
衆寮は、僧房または学生寮です。
学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。
桁行八間、梁間二間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張です。
内部は、六畳の間に、一間の土間がついて一部屋になります。それが四部屋続く長屋となっています。(宝暦年間の姿に復原)
現地案内板より
学生寮です。ここに何人くらい泊まっていたんだろうか?
木小屋
木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の『木』などを格納する建物といわれています。
桁行五間、梁間二間、屋根は寄棟造りの茅葺、外壁は上が土壁の中塗仕上、下が板壁です。床は三和土の土間です。
薪のほかには、日常使う用具や食糧なども保管しておいたと思われます。(宝暦年間の姿に復原)
現地案内板より
物置です。
土蔵
土蔵は、大切なものを格納する堅牢な耐火建築として建てられました。
桁行三間、梁間二間の土蔵造です。
外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。
栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっています。(宝暦年間の姿に復原)
強化版物置です。
庠主(学長)の墓所
関東管領上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定すると共に、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、足利学校中興初代の庠主としました。
庠主は、明治初期に足利学校が藩校になるまでの約四百三十年間にわたり、二十三代まで続きました。
庠主の墓は総計十七基あり、多くは無縫塔で、そのうち八基には文字が刻まれていますが、残りの九基は不明です。
現地案内板より

最後に足利学校の創設について紹介して終わります。
足利学校の創設について
足利学校の起源は幾つかの説があり、はっきりとしたことはわかっていません。
歴史が古いものから並べると、
1.奈良時代に官人育成(国学)のために造られた学校
2.平安時代、小野篁によって創建された
3.鎌倉時代、足利義兼によって創建された
4.室町時代、上杉憲実によって創建された
といった感じです。
1.奈良時代に官人育成(国学)のために造られた学校
国府に併設された学校だったという説で地名や蔵書印、出土物から仮説を立てています。
しかし『下野国の国府は現在の栃木市にあり足利から移設したという記録が残っていない』『蔵書印は偽造なのでは?』といった理由からこの説はあまり重要視されていません。
2.平安時代、小野篁によって創建された
小野篁が創建したという説。
小野篁を調べても足利との接点はないですし、創立年月が島流しされていた時期と重なっているようなので有力視されていません。ただ足利学校で小野篁の坐像を展示しているくらいですから、それなりの根拠があるのかも。
なぜ、このような言い伝えが残っているのかを調べてみたら面白そうです。
3.鎌倉時代、足利義兼によって創建された
足利義兼は源頼朝に仕えた武将で足利荘を治めていました。
後に室町幕府を開いた足利尊氏の先祖ですね。
足利出身の人物なので有り得そうな話ですが、決定的な証拠が残っていないため何ともいえないようです。
4.室町時代、上杉憲実によって創建された
この時代に初めて学校の存在が明らかになります。
関東管領の上杉憲実が学校を整備し教育を重要視し発展させました。これに関しては間違いないのですが、既に学校は存在していて彼が更に進んだ教育機関にしたのではないかと考えられています。
上杉憲実が学校を開いたという説もあるようです。しかしそれは極論かもしれません。
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