島原大変肥後迷惑とは?天草四郎が由来の四郎ヶ浜ビーチを歩く

四郎ヶ浜

天草市有明町にある四郎ヶ浜はその名前の通り天草四郎が由来の砂浜である。

夏場は海水浴場として人気な場所だが、一部の界隈では心霊スポットとしてここを紹介している。

何故、幽霊が出ると噂されているのか?

四郎ヶ浜の過去に答えがありそうだ。

それでは、歴史を振り返ってみよう。

 

四郎ヶ浜へのアクセス

四郎ヶ浜

九州本土から天城橋、或いは天門橋を通り天草方面へ。

松島橋を越えた先にある合津ICから有料道路に入る。そこから10分ほど走ると丁字路に当たるので右折。間もなく四郎ヶ浜に到着する。

浜の直ぐ近くにある『道の駅 有明』に駐車した。(もちろん帰りに施設を利用した。)

私が訪問した時期は初春であった。

海水浴のシーズンになると事情が変わるだろう。ビーチ併設の駐車場や民間有料駐車場が開設されるので事前に確認、予約をして向かうべきだろう。

 

四郎ヶ浜が心霊スポットと言われる理由

四郎ヶ浜

天草四郎がこの浜に上陸したという伝説が四郎ヶ浜の名の由来だから、

『江戸時代前期に起きた島原・天草の乱が原因ではないか?』

と思う方も多いかもしれない。

しかしそれは違う。

まずは天草四郎が何の目的でここに上陸したのか説明しよう。

 

島原・天草の乱キリシタン軍上陸の地について

四郎ヶ浜

四郎ヶ浜から南西方向に『島原・天草の乱キリシタン軍上陸の地』と呼ばれる場所がある。

今回は時間が無くて訪問出来なかったが、そこには島原・天草の乱関連の石碑があるとのこと。

反乱軍の首謀者たちは湯島(談合島)で天草四郎を総大将として決起。
幕府の鎮圧軍が有明に進軍してきたという報告受けた天草四郎らはこの場所から上陸。
反乱軍は敵の本拠地である富岡城をめざして幕府軍と争った。

↑の通り天草四郎は総大将として担ぎ上げられ幕府軍と戦うため四郎ヶ浜近辺に上陸したのであった。

『天草の人間が何故、四郎ヶ浜に上陸?』と疑問に思いもしたけれども、恐らく湯島(談合島)から船に乗って来たということなのだろう。

天草でも戦いは発生したが、四郎ヶ浜は上陸の地で古戦場ではない。

という訳で島原・天草の乱を心霊スポットの根拠とするのには無理がある。

 

島原大変肥後迷惑とは?

四郎ヶ浜

この地蔵尊の台座下に答えが記されていた。

南無阿弥陀佛

寛政四年四月〇日雲仙嶽○○○○大津波有明海ヲ○○○〇襲来〇

天暗〇地動キ為ニ天草〇〇死者四百(?)人

(一行読めず)

雲仙嶽ト相対スル○○○○○○

兩肥溺死者ノ寄スル○最○夥シ

再来百八七余年○業○テ○霊

今尚安ニ○○○如ク○○○○

(一行読めず)

郷人此処ニ於テ無縁○○○○

地蔵尊ヲ建立ス願ワク○○○

〇御照覧アランコトヲ

昭和五十一年八月吉日 下津江郷〇

撰文 ○○○○

文字が摩耗して殆ど読めなかったが、書かれている内容は何となく理解出来る。

1792年(寛政4)に起きた島原大変肥後迷惑と呼ばれる災害についてであった。

雲仙普賢岳の噴火と地震活動によって島原半島にある眉山の南側が崩壊!
多量の土砂がもの凄い勢いで有明海に流れ込んだ為、対岸の天草に大津波が襲う。
津波は勢力を保ったまま島原半島に戻っていき更なる災害を生み出した。

島原大変肥後迷惑の死者、行方不明者は約15000人だったと伝わり、熊本側のその内の5000人だった。

上で引用した碑文の通りなら天草では約400人の方々が亡くなったということとなる。

 

終わりに

四郎ヶ浜

『ここは災害があった場所だから用心なされ』と後世に知らせることはとても重要だと思う。

いちのまる
いちのまる

そこで災害が起こる可能性を知っていれば回避する方法を考えられますからね。

しかし、長い年月が経つと昔起きたことなんてすっかり忘れ去られてしまう。

恐らくは情報の一部だけが残り『ここには幽霊が出る場所?!』になってしまったのに違いない。

こういう風に幽霊の噂の原因を考えたり調べたりすると新しい発見がある。

それが私の生き甲斐だったりする。

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