娑婆神は『さばがみ』と読む。
古い昔は、小野部田から、豊福にかけて、山裾まで海だったので、娑婆神峠路が北へ通ずる幹線路でした。
文献によると、白髪山(しらがみやま)、さばき髪山、鯖神嶺(さばかみのみね)などの名称があるように、伝説、信仰跡の豊かな峠です。
現地案内板より
とのこと。
娑婆神峠について
引用文後半の『伝説、信仰跡の豊かな峠』は具体的な説明が欲しいところだ。
白髪山、さばき髪山、鯖神嶺が何らかの伝説や信仰に関する名称なのだろう。
白髪山とさばき髪山は『髪』を『神』に変えればそれっぽい感じにはなりますね。
鯖神嶺?鯖神??サバの神様???
どうやら神奈川県に源義朝を祀る鯖神社というものがあるらしい。
平安時代末期に活躍した源義朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の父親に当たる。義朝の弟・為朝が九州北部にゆかりある人物だが…。多分、娑婆神峠とは関係ないだろうな。
娑婆神という名前はなんだか宗教的である。
娑婆は仏教用語で『苦しみを耐え抜く場所』『お釈迦様が衆生を教化する場所』すなわち現世のことを表す。
『娑婆+神』は日本人らしい神仏習合的な言葉だと感じた。仏教に神様はいないので。
心霊スポットとしての娑婆神峠
さて、本題。
娑婆神峠は心霊スポットとして知られている。
幾つかの心霊サイトを覗くと『自ら命を絶った人の霊が出る』とある。
ここ30年間の新聞データーベースを検索して娑婆神峠で事件や事故が起きていないか調べると1件だけ交通事故に関する記事が発見した。
1993年(平成5)11月24日の記事で『自損事故が多発することから交通安全を願ってトーテムポールを建てた。』という内容だ。
これは心霊スポットと関係ないでしょうね…。
遺体が見つかったなどと書かれていれば『素直になるほど!』と思えるのだが、それらしき記事は無かった。もっと過去の新聞を調べれば『自ら命を絶った人の霊が出る』の根拠となる事件や事故を発見出来るかもしれないが…。
響ヶ原の戦いについて
他に理由はないかと、調べていると娑婆神峠が古戦場だということ判明した。ここでは時代を隔てて2度の合戦が行われている。
1581年(天正9)、相良氏と阿蘇氏が娑婆神峠近辺で争っている。これを響ヶ原の戦いと呼ぶ。
島津義久は義陽に『阿蘇氏を攻めよ!』と命令。相手は御船城主の甲斐宗運。
相良義陽と甲斐宗運は相互に不可侵を約束した盟友であった。
その後は如何に…。
この合戦の詳細については相良堂(響ヶ原古戦場跡)の記事で紹介しようかと思う。
西南戦争と娑婆神峠
1877年(明治10)、西南戦争の松橋の戦いで娑婆神峠の奪い合いが発生している。
西郷軍の必死の抵抗に苦戦した政府軍は衝背軍を結成し南からの攻撃も加えた。
衝背軍は長崎港から洲口に上陸、北上。
それに対抗したのが西郷軍三番大隊の大隊長・永山弥一郎だった。
北上させまいと奮戦する西郷軍だったが多勢に無勢。
氷川、小川で政府軍に敗れたため戦場を北に移し松橋、娑婆神峠の守りを固めた。
明治10年3月30日午前6時、政府軍・川路利良少将が率いる別働第三旅団が娑婆神峠を守る西郷軍を攻撃。
午前11時に官軍によって娑婆神峠は占領された。
その後、松橋、宇土、川尻などを突破した官軍は熊本城の窮地を救った。
こんな感じの戦いであった。
終わりに
娑婆神峠が心霊スポットと言われる根拠は古戦場だからではないだろうか?
古戦場はどうしても性質上心霊スポットのネタにされることが多い。
戦争は歴史を学ぶ上で外す事の出来ない事柄である。
ただ怖がるだけでなく、その背後に何があるのかを考えてみると意外な発見があるかもしれない。
こういう場所は命を懸けて戦った人々の霊が眠る場所なのだから畏敬の念を持って訪問すべきであろう。(霊が存在するかどうかは捨て置いて)
コメント
道に落ちる枝。雰囲気。
通行量が少ないのかな~って感じました。
>畏敬の念を持って
ホントですね。合掌です。
連休もどこか遠出されるのかな~
上総 さん
娑婆神峠は戦国時代に交通整備のために設置された石畳が名所です。
石畳の場所まではきれいに掃除されていますが、それ以降は道なき道になっています。
いつもの感じで『石碑とか地蔵尊ないかな?』っと荒れた峠道を歩いてみました。
戦争を賛美するつもりはありません。
でも命を懸けて何かのために戦った人々を私はリスペクトします。
連休はありません!
本業が忙しい時期なのです。