高島平団地は何故心霊スポットとしてこんなにも有名になってしまったのか?

高島平団地

高島平の地域開発計画は1963年(昭和38)頃から構想あり、その数年後に区画整理が始まる。

団地は1969年(昭和44)に着工され3年間かけて落成、1972年(昭和47)に初の住民が入居した。

総戸数10,170戸、想定人口は3万余名、その規模から『東洋一のマンモス団地』と呼ばれる事もあった。

入居条件は大変厳しく一部の分譲地では競争率3000倍という数字を出したそうだ。

 

高島平団地

自治体や公団は中流階級層の入居を想定していたが、予想は外れ比較的低所得な若者が入居していった。

根城を手に入れた若者たちは仕事と私事に励み、第二次ベビーブーム時は往来で妊婦を見ない日が無かったと云う。

団地は忽ち過密状態となり幼稚園や学校不足などの問題に陥った。

次々と学校と建てられたが、なかなか追いつかなかったようだ。

反対に現在は少子化の影響で数校が閉鎖に追い込まれている。

また団地誕生から50年近く経た今、入居者の高齢化問題が深刻になっているとの事。

いちのまる
いちのまる

以上が高島平団地の簡単な概要です。

心霊スポットの根拠は後程紹介しますので引き続きお付き合い下さい↓

 

高島平の歴史

高島平団地

高島平の地名の歴史は浅い。

江戸時代から明治時代にかけて一帯は徳丸原と呼ばれ村民の秣場と徳川将軍家の鷹狩場の併用地であった。

いちのまる
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秣場は家畜の飼料(飼葉)が採れる場所の事。
牛や馬の放牧地だったのかな?

江戸時代の中頃からは大筒の稽古場としても利用され、1841年(天保12)には高島平の名の由来となる高島秋帆の西洋式砲術演習が行われている。

明治初期から開墾が始まり、当地区は赤塚田圃や徳丸田圃などと呼ばれるようになった。

一時は東京都の7割の米を作っていたと評される程の水田地帯に発展している。

戦後になると地下水の枯渇や工業用水による公害によって水耕農家は苦しみ近代化の波から脱落し、やがて宅地の造成計画が企図された。

高島平の名前が登場したのは団地建設のための区画整理が始まってからで、他に”徳丸平”や”赤塚平”などの候補も挙げられたが、高島平が決定案となり1969年(昭和44)3月に住所表示が実施された。

 

高島平団地に流れる心霊の噂の根拠

高島平団地

数多くある東京都の心霊スポットで五指に入る知名度を持つであろう高島平団地。

ここが心霊スポットと言われる由縁は、ずばり投身自殺の多さである。

入居開始して間もなくの1972年(昭和47)6月に団地外の人が飛び降りた。

最初の1、2年は団地住民の自殺がチラホラあるくらいだったらしい。

いちのまる
いちのまる

何万人も住んでいる団地だから多少の事故や事件は起きちゃうよね。

1976年(昭和51)までは自殺者一桁に収まっていたが、1977年(昭和52)から急激に増加している。

理由は父子3人の飛び降り心中がテレビや新聞で大きく報道されたためであり、これによって自殺の名所として全国的に認知され、外部からの自殺志願者を招く結果になってしまった。

試しに読売新聞のデータベースサービスで『高島平団地 自殺』と調べてみると『○○人目の自殺』のような記事が多数見つかった。

自殺者数のピークは1980年(昭和55)の27名、団地落成から1998年(平成10)までに180名を越える方々が自殺で亡くなっている。

マスコミ対策で自殺防止祈願のお祓いを実施した事もあると云う。

その後、転落防止柵の設置やパトロールの実施によって自殺者は激減した。

 

終わりに

高島平団地

訪れるまで高島平団地には陰鬱なイメージしか無かったが、日中は想像に反して明るかった。

休日の訪問だったということもあるだろうが、子供たちが父母と公園で戯れ、団地内のスーパーで主婦や老夫婦が買い物をしながら談笑していた。

人口ピーク時はもっと賑やかだったに違いない。

団地居住者が次々と飛び降りているならば土地や建物に因縁がありそうだけれども、居住者の情報(2004年朝日新聞)によると9割方はヨソ者だったと話している。

歴史を振り返って分かる通り、高島平そのものに何か曰くがある訳ではない。

自殺が多発した原因はウェルテル効果だと思われる。

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