千葉県市川市にある不知八幡森(通称・八幡の藪知らず)。
大昔から禁足地として名を馳せ、『絶対に入ってはならない』或いは『入ったら二度と戻って来ることが出来ない』はたまた『入ると必ず呪われる』などといった恐ろしい言い伝えが残っている。
小規模な竹藪にしか見えないが、一体全体どういう訳だろうか?
現地案内板に詳しく紹介されていたので引用・要約しよう。
八幡の藪知らずへのアクセス
最寄りの駅は総武本線の本八幡駅。
駅から徒歩3分程の距離にある。
八幡の藪知らずとは何ら関係性はないが、ミラノ風ドリアで有名なサイゼリヤの1号店教育記念館が近くにあるので興味のある方は事前予約して訪問すると良い思い出になると思う。
八幡の藪知らずの歴史
入っていけない理由については、
・最初に八幡宮を勧請した旧地である。
・日本武尊が陣所とされた跡である。
・貴人の古墳の跡である。
・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。
・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。
不知八幡森(通称 八幡の薮知らず)の案内板より
また、水戸黄門(徳川光圀)が薮に入って神の怒りに触れたという伝説が、錦絵となって世の中に広まったとも書かれている。
“最初に八幡宮を勧請した旧地”
下総国総鎮守である葛飾八幡宮のことであろう。
葛飾八幡宮は八幡の藪知らずから直線距離で200m程の位置にある。
“日本武尊が陣所とされた跡”
市川市には日本武尊に纏わる伝説の地が点在する。
若宮や国府台の地名は日本武尊に由来すると云う。
“貴人の古墳の跡”
古墳と言えば盛土を想像するが、ここにそれは無い。
むしろ薮知らずの中央部は窪んでいるらしい。
平貞盛の八門遁甲
平貞盛は平将門を討ち果たした平安時代中期の武将。
平清盛や戦国時代に関東地方を支配した後北条家の御先祖様だと云われている。
八門遁甲は中国の占術の一種。
基準とした土地を中心にして、八方向に門があると仮定して占う感じみたい。
(開門、休門、生門、傷門、杜門、景門、驚門、死門)
ちょっと難しいから詳細は割愛します。
貞盛が敷いた八門遁甲陣の死門の位置が八幡の藪知らずに当たるため禁足地になったという言い伝えである。
平将門の家臣6人が泥人形
意味が分からなかったので調べてみた。
平将門には何人かの影武者がいたのだが、見破られて将門は討ち取られてしまった。
影武者たちは京に運ばれる主人の首を奪還しようとするけれど、八幡の森で姿を消し泥人形に成り果てていた。
将門の首が京に届けられた後、雨が降り泥人形は溶けて消えてしまい、それから八幡の森では青い火の玉が飛び交うようなった。
噂を聞いた強者が霊の退治に挑んだが、森から二度と帰って来ることは無かった。
放生池の跡説
現地の案内板によると”これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。”と記されていた。
八幡宮の伝統的な催しで供養のため生き物を森や池に放つ放生会という行事がある。
この行事に使用される池が放生池という訳だ。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には『入ってはならぬ』ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
不知八幡森(通称 八幡の薮知らず)の案内板より
終わりに
凄惨な事故や残酷な事件など、負の歴史に触れる機会が多いので日々鬱々しがちの私であるが、このような伝統的な心霊スポットは調べていても気が滅入らず精神衛生上よろしい。
このまま都市開発の流れに巻き込まれず、今後とも史跡として大切に扱って欲しいと願うばかりである。
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