新編相模国風土記稿でみる鎌倉長谷寺の成り立ち

長谷寺

心霊スポット探索をしていると『なんで、ここに心霊の噂が流れているのだろう?』と首を傾げたくなるスポットがある。

例え歴史的な根拠が無かったとしても、一般的な心霊スポットには何となく不穏な空気が漂っている場合が多いのだけれども、そういう雰囲気を全く感じさせない場所が時たま存在する。

ここ長谷寺がそうであった。

 

長谷寺

寺院系の心霊スポットは決して珍しくはないのだが、槪ね曰くがはっきりとしている。

『刑場に建てられた寺、幽霊画で知られる寺、外壁が真っ赤な寺、墓地に曰くのある寺』などなど。

長谷寺にも何か歴史的な根拠があるのだろうと期待して調べてみたものの残念ながら目ぼしい情報は見つからなかった。

長谷寺に纏わる幽霊の噂をご存知の方がいらしたら是非ご教授願いたい。出来れば漠然とした話ではなく『これこれこういう理由でこういう幽霊が出る』的な感じで教えて頂けると嬉しい。

という訳で、心霊の話はこの辺で終いにして、これより以下は長谷寺の風景とその歴史を新編相模国風土記稿を引用しつつ紹介しようかと思う。

 

長谷寺へのアクセス

長谷寺

江ノ島電鉄の長谷駅から徒歩5分。駅出口から右に進むと長谷観音前の信号に当たるので左折。

数100m先に長谷寺の山門が見えるだろう。

山門前に専用駐車場が完備されているので、自動車も可。

 

 

長谷寺の歴史

長谷寺

觀音堂。

海光山新長谷寺ト號ス。本尊十一面觀音ハ(長二丈六尺)和州長谷ノ觀音ト。同木同作ナリトソ。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

観音堂
海光山新長谷寺と称する。本尊の十一面觀音は大和国の長谷寺の観音と同じ木で同じ作者ということだ。

本家本元の奈良県の長谷寺を始めとして全国に点在する長谷寺には様相の似た観音像が祀られ、それら総称して『長谷寺式十一面観音』と呼ぶ。

 

長谷寺

緣起ニ據ニ。元正天皇ノ御宇。德道上人。和州長谷ノ山中ニ。巨木ノ倒レ臥タルヨリ異香常ニ薰シ瑞光ノ現スルヲ見テ是ヲ怪ミ。其所ニ往テ視ルニ十丈餘ノ楠ナリ。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

縁起によると、元正天皇の治世に徳道上人が、大和国長谷の山中で巨木が倒れ臥している所に得も言われぬ香しさが漂い、めでたい光の現れるのを見てこれを怪しみ、そこへ行って見ると十丈余りの楠があった。

元正天皇は7世紀後期から8世紀中期を生きた天皇。藤原京から平城京に遷都された頃の時代である。

 

長谷寺

德道。殊ニ悦ヒカヽル靈木ニテ觀音薩埵ノ像ヲ雕刻シ。末世ノ衆生ニ結緣セシメ。普ク救世ノ大悲ヲ蒙ラシメン事ヲ志願シテ。靈木ニ向ヒ。誦經禮念ス。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

徳道上人はとても喜んで霊木で観音菩薩の像を彫刻し、末世の迷える人々に仏縁を持たせ、全てに亘って救いの大悲を授け給えと志願して、霊木に向かい経を読み祈念した。

 

長谷寺

玆ニ老翁二人來タリテ。我等尊像ヲ彫造シマイラセント云フ。德道歡喜シ。二翁ノ姓名ヲ尋ルニ。稽文會。稽首勲ト云ヘル。佛工ナリト答フ。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

ここに2人の翁が現れて、我らが尊像を彫造しようではないかと言った。
徳道上人は歓喜して2人の翁の名前を尋ねると稽文会、稽主勲と言い、仏工だと答えた。

稽文会、稽主勲ともに伝説の域を出ない存在。

 

長谷寺

德道即十一面大悲ノ尊容ヲ。彫造セント請ケルニ二翁承諾シテ。彼木ヲ兩斷トナシ纔ニ三日ヲ經テ。二躰ヲ成就シ。或ハ天照大神。春日明神ナリ。衆生利益ノ大願ヲ。成就セシメン爲ニ爰ニ來タリテ。彫刻セリト告テ。忽雲中ニ化シ去ヌ。時ニ養老五年三月ナリ。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

徳道上人は十一面大悲の御姿を彫っていただくようお願いすると翁は承諾して、彼らは木を両断して僅かに3日を経て、2体を造られた。天照大神、春日明神である。
迷える人々の救いの願いを成就させる為にここに来て彫刻したと告げて、忽ち雲のように消え去った。時は養老5年(721)3月であった。

写真が鎌倉長谷寺の御本尊の十一面観音像。

像の高さは9.18m。

 

長谷寺

藤原房前勅ヲ奉シテ。和州長谷ニ下向シ。僧行基ヲ導師トシテ。開眼供養ノ法會ヲ修ス。斯テ一軀ハ其地ニトヽメ。一軀ハ有緣ノ地ニ出現シ。衆生ヲ濟度シ給ヘト。海中ノ波濤ニ泛フ。後十六年ヲ經テ天平八年六月十八日。當國三浦郡長井村ノ海上ニ現出ス。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

藤原房前が天皇の命を受け、大和国長谷に訪れて行基を導師として開眼供養の法会を開く。
このようにして一つはその地に留め、もう一つは縁のある地に現れ、迷える人々を救い給えと海の大波に浮かべた。
16年の後を経て天平8年(736)6月18日、当国の三浦郡長井村の海上に現れた。

ここからようやく相模国の話になっていく。

 

長谷寺

此事叡聞ニ達シ。藤原房前。再勅命蒙リ。此地ニ下向シ當山ニ一宇ヲ草創シテ安置シ。僧德道ヲ迎テ。開山トシ。海光山新長谷寺ト稱スト云ヘリ。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

このことが天皇の耳に入り藤原房前は再び命を受け、この地に訪れ当山に堂を建て像を安置し、徳道上人を迎えて開山。海光山新長谷寺と呼ぶようになった。

これが鎌倉長谷寺の起り。

 

長谷寺

康永元年三月。尊氏佛躰ヲ修飾シ。箔ヲ彩リ。玅相ヲ修治シテ。莊嚴ヲ加エ。明德三年十二月。義滿後光ヲ造立ス。行基作ノ同像。前立トシ傍ニ勢至。如意輪。大黑。惠比須。及ヒ三十三身ノ觀音像。愛敬地藏。大日。彌勒。並ニ開山德道等ノ像ヲ置ク。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

康永元年(1342)3月。足利尊氏が仏像を修飾して箔で彩り容姿を修理して荘厳さを加えた。
明徳3年(1393)。足利義満が後光を造立。行基作の像、前立として傍に勢至菩薩、如意輪菩薩、大黒天、恵比須、及び三十三身の観音像、愛敬地蔵、大日如来、弥勒菩薩、並びに開山した徳道上人等の像を置いた。

時代がビックリするほど飛んだ。

鎌倉にあるのに鎌倉時代の話が出てこないのは何故だろう?

 

長谷寺

天文十六年十月。北條氏ヨリ。當寺敷地二貫文ノ分。先規ノ如ク寄附アリ。天正十九年十一月。初テ寺領二貫文ノ。御朱印ヲ賜ヘリ。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

天文16年(1547)10月。北条氏より当寺の敷地2貫文の分、以前からのしきたりの寄付があった。
天正19年(1591、1592)11月。初めて寺領2貫文の御朱印を賜った。

戦国時代は後北条氏の庇護下にあったようだ。

 

長谷寺

慶長五年關原彼ノ前。東照宮御參アリ。同十二年。更ニ命アリテ。堂宇ヲ修整セラル。正保二年。酒井讚岐忠勝。資財ヲ抛テ。再修復セリ。中興ヲ春宗。再中興ヲ辨秋ト云フ。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

慶長5年(1600)。関ヶ原の戦いの前、徳川家康の参拝があった。
同12年(1607)。さらに命があって堂の修理が為された。
正保2年(1645)。酒井忠勝が資産を投げ打って再修復した。中興の祖を春宗、再中興の祖を辨秋という。

時の権力者たちに信仰されていた事のわかる記述である。

 

終わりに

長谷寺

坂東札所第四ナリ。堂上長谷寺ノ額ヲ掲ク。子純カ書ナリ。毎年六月十七日。當寺ノ會ニテ。貴賤老少群參ス。

新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二十八より

坂東札所第四である。
堂上に長谷寺の額を掲げる。これは子純が書いた。
毎年6月17日、当寺の会にてあらゆる人々が群れ成して参拝する。

引用した新編相模国風土記稿は天保12年(1841)に刊行された相模国(神奈川県)の地誌で、当時の様子や言い伝えなどの貴重な情報が今でも拝読できる大変ありがたい書物である。

これの少し前に発刊された新編武蔵国風土記稿ともに私の中で欠かせない読み物と成りつつある。

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