茂木城の築城年ははっきりしていない。
鎌倉時代、年代は建久年間(1190~1199)
奥州藤原氏の討伐で活躍した八田知家が源頼朝から下野国茂木郡を与えられ、その三男・知基にここを守らせたのを始まりとする。
八田知家は鎌倉幕府の十三人の合議制の一人である。これは源頼朝の死後、鎌倉幕府の有力者13名で構成された政治体制の事。
源頼家(頼朝の息子)を中心にみんなで考えて方針を決めましょう!的な感じかな?
2022年(令和4)の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では市原隼人が八田知家を演じている。
鎌倉時代の茂木氏
八田知基は桔梗山に城を築き、その地名から茂木を名乗った。桔梗山に築城したことから桔梗城とも呼ばれた。吾妻鏡によると知基は馬の扱いに長けていたようで流鏑馬の騎手に選ばれている。
1221年(承久3)に起きた承久の乱で活躍し紀伊国賀太庄を与えられた。茂木知基所領譲状写にその旨が書かれているとの事で調べてみたけれども、私には難解過ぎて読み下せなかった。
知基の息子である茂木知定は、1247年(宝治1)の宝治合戦(北条vs三浦)で三浦泰村の家臣の首を取る功績を立てたが、裏切りの嫌疑をかけられてしまった。理由は『泰村の縁故の者』であったから。後に証人の証言が認められ嫌疑の払拭と褒賞を得た。これは北条九代記や吾妻鏡に記されている。
南北朝時代・室町時代の茂木氏
鎌倉時代末期には新田義貞率いる鎌倉討伐軍に参加し、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇から本領を安堵されている。その後、茂木氏は後醍醐天皇の建武の新政を見限り足利尊氏の味方に付いた。関東地方を巡る南朝と北朝の戦いで茂木城は一度落城したが、直ぐに奪還出来たようである。
南北朝時代・室町時代の関東地方の歴史は非常にややこしい。
足利将軍家から枝分かれした公方様たちとそれを補佐するはずの管領、またそれらに従う豪族たちが争ったり時には手を組んだりと訳が分からない。茂木氏はこの混乱期を見事に乗り越え戦国時代末期まで茂木城を本領として活躍している。
戦国時代の茂木氏
戦国時代と言うと漠然としているが、ここではざっくり1500年代として話を進めていく。
これまで通り足利将軍家の血族や関東管領の争いは続いていたのだが、新たな勢力が台頭し数世代をかけてこれを駆逐した。関東地方の覇者・後北条氏である。戦国時代の関東の豪族は凡そ後北条氏か越後の上杉氏(長尾氏)に従っていた。
この時代の茂木氏は常陸国の佐竹氏と同盟を組んでいたので、上杉派閥に組していたということになる。北関東は後北条氏、上杉氏、武田氏という強大な大名に囲まれていたため戦いの中心となった。1585年(天正15)に茂木城は北条氏によって落城したが、佐竹氏によって奪還され事なきを得た。
1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が滅亡する。
佐竹氏は秀吉から出陣命令を受けていたが、伊達氏や常陸国内の豪族が不穏な動きを見せており直ぐに動ける状況で無かった。事前に秀吉には話が伝わっていて咎めは受けなかった。小田原城包囲中の秀吉に謁見し、その後石田三成が攻める忍城の戦いに参軍したようだ。
小田原征伐で茂木氏がどのように動いたのかは分からなかった。
この頃から茂木氏は地域の領主という立場から佐竹氏の家臣団として扱われるようなった。1594年(文禄3)、佐竹氏の命により茂木氏は茂木城から常陸国小川城へ転封。佐竹家臣の須田氏が茂木城に入城した。こうして約400年に亘る茂木氏による茂木城の統治が終わった。
江戸時代の茂木氏
茂木城の廃城年は1602年(慶長7)。
江戸幕府によって佐竹氏が秋田に転封を命じられた後、細川興元に茂木領が与えられた。興元が城山の麓に陣屋を設置したため茂木城は廃城となった。
茂木氏は佐竹氏と共に秋田へ。
JR花輪線・十二所駅から徒歩10分程にある十二所城跡。1869年(明治2)の版籍奉還に至るまで茂木氏はこの辺りの統治を任せられた。
茂木城へのアクセス
真岡鐡道の茂木駅から徒歩20分程、歩くのが難しいなら茂木駅からバスも出ている。下横街が最寄りのバス停。
駐車場が完備されているので、自動車でも問題ない。城山の麓から駐車場まで狭いつづら折りを登るので運転には細心の注意を!
ここまでの道のりは何処から来るのかによって多様なので割愛。ナビを使ってください。
終わりに
茂木城にはどういうわけか心霊スポットの噂がある。
・展望台でチック音がする。
・人がいないはずなのに人の気配がする。
という事らしい。
落城した過去のある城なので、戦死者が出た可能性はある。戦わずにして降伏したのだとすれば話は別だが、流石にその記録は残っていないだろう。
他には城山で自殺者が出たという噂も聞いた。当ブログでしばしば述べているけれど、それ系は公に情報が出ない場合が多い。現場の聞き込み調査を行えば或いは事実がわかるかもしれない。しかしそのような事を問われて嬉々として語る方がどれ程いようか甚だ疑問である。だから私はしない。
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