土浦駅と慰霊碑。戦時中に発生した桜川橋梁列車三重事故の詳細について

土浦駅の慰霊碑

JR土浦駅から約400m南南西方向に架かる桜川橋の袂。

1943年(昭和18)10月26日に発生した桜川橋梁列車三重事故の慰霊碑が安置されている。

どのような事故だったのか?詳しく見ていこう。

 

慰霊碑の文言

土浦駅の慰霊碑

事故の詳細は慰霊碑に記載されているので以下に引用する。

この慰霊碑は、昭和十八年十月二六日、土浦駅構内に於て発生した列車三重衝突事故による犠牲者の霊を慰めるために建立されたものである。

この列車事故は国鉄史上にまれにみる大惨事であった。死者九十六名、負傷者百余名と記録されている。

事故発生の経緯は以下の通りである。

すなわち、貨物二九四列車が同日午後六時四十分に土浦駅に到着、直ちに入れ換え作業が開始されたが、同貨物列車は誤って上り本線に進入、立ち往生した。

その直後、駅構内へ上り二五四貨物列車が進入、二九四貨物列車と衝突した。

このため両者は脱線、暴走、二五四貨物列車は桜川沿いの下り本線上に転覆した。

この時多数の乗客をのせた二四一旅客列車はすでに駅構内に接近しつつあり、急停車する間もなく転覆していた貨物列車に激突した。

旅客列車は脱線転覆、一、二輌目は大破、三輌目は鉄橋から斜めに傾き、四輌目は完全に水没した。

事故発生後鉄道省は迅速にこれに対応した。

軍隊の応援を含む二千余名の人員を投入、輸送路確保のための復旧作業を開始した。

救助活動も直ちに開始された。

土浦市は地元の各種団体に応援を要請、市民もこぞって不眠不休の救援活動にあたった。

しかしあたりは闇に包まれ救助活動は困難を極めた。

時あたかも第二次世界大戦の真唯中であったため、救助を他の都市に求めることは不可能であった。

当時土浦在住の医師の多くは召集され、医薬品は極度に不足していた。

医師看護婦は市民と共に必死で救護にあたったが、事故の規模はあまりにも大き過ぎた。

このため負傷者のほとんどは十分な治療を受けることができず、露天の筵上に長時間放置された。

戦時下の厳しい報道管制により、この事故は国民の耳目に広く触れることなく、犠牲者の霊は公に慰められることもないままに、長い年月が過ぎ去った。

昭和四十年に至り、時の土浦駅長などの努力によって事故現場に木碑が建立された。

だがその木碑も風雨に洗われ、もはや碑の由来を知ることもできない。

この度、木碑にかえてここに永久碑を建立したのは、この悲しむべき惨事による犠牲者の冥福を心より祈ると共に、このような不幸な事故が二度と起こらないことを強く祈念して後世に伝えるためである。

昭和六一年六月

国鉄事故犠牲者の慰霊碑建立のための準備委員会これを記す

心霊スポットの噂について

土浦駅の慰霊碑

ここには心霊スポットの噂があるらしいのだが、甚だ不謹慎だと私は思う。

このようなタイトルのブログ運営者が言っても何の説得力が無いのだけれども、私は心霊スポットに対して懐疑的な立場であり、レッテルが貼られるとまず碌な事にならないので存在を否定する傾向にある。

仮に霊が存在するならば然るべき方法で弔うべきだろうし、霊の存否を考えないにしても死者を愚弄すべきではないと信じる。いずれにせよ遊び半分に扱う対象ではないのだ。

いちのまる
いちのまる

たまに『しんれい新聞』というサイト名を変えようかと思うときがあります。

どちらかといえば心霊スポットに対して批判的な立場を取っているので『心スポ・ぼくめつ新聞』とかにしようかしら?

 

終わりに

もう語ることは無い。首を垂れ、瞑目し、合掌あるのみ。

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