戊辰戦争の激戦地、母成峠古戦場へ

母成峠古戦場

福島県郡山市と猪苗代町の境に位置する標高972mの母成峠。

『母成(ボナリ)』の地名の由来は判然としない。会津史学会の書籍では前九年の役(1051年~1062年)にまつわる伝説と関連付けている。峠の洞穴に隠れ潜んだ源義家が油断した安倍貞任・宗任を打ち破ったことから、洞穴を母の懐(胎内)にたとえ『のお陰で勝ちがった』ということらしい。

峠の西側の住所は『福島県耶麻郡猪苗代町蚕養ホナリ乙』となっている。

『ホナリ=母成(ボナリ)』だとは思うが、なぜ住所のほうは濁らないのか?現代で『ホ』を『ボ』と読ませるってことはないだろうし。元々『ホナリ』と呼ばれていたならどうして『母成』を当てたのかしらと考えてみたり。いろいろと気になって仕方がないが情報は見当たらない。ちなみに大字の『蚕養(コガイ)』は明治時代まで存在した蚕養村の名残である。

さて、本題。

母成峠には心霊スポットの噂が流れている。上の写真を見れば一目瞭然だが、ここは古戦場。やはり『兵隊の霊が彷徨っている』みたいな話らしい。

この記事では母成峠の戦いがどのような戦いだったかを紹介しようかと思う。

 

戦国時代の母成峠

母成峠古戦場

まずは1589年(天正17)に起きた摺上原の戦い。『すりあげはら』と読む。

これは伊達政宗と蘆名義広の戦いで攻め手の伊達軍が勝利を収めた。会津侵攻の際に伊達軍は母成峠のルートを使用したそうである。ここで両軍の衝突があったかどうかは知らないけれど、合戦の一環で使われたとのことなので紹介した。

蘆名氏を滅ぼし広大な領地を手に入れた伊達政宗だったが、惣無事令を無視されたことに激怒した豊臣秀吉によって会津の領地は没収されてしまった。

現地の案内板に『北側部分は、上杉景勝・直江兼続時代に築かれた防塁で』と書かれていた。この防塁は時期的に徳川家康の会津(上杉)征伐に備えて造られたのだろう。次に紹介する幕末期の戦いでこれが再利用された。

 

幕末期の母成峠

母成峠古戦場

1868年(慶応4)、戊辰戦争の一環で発生した母成峠の戦い。

白河口の戦い、二本松の戦いの勝利で勢い付く新政府軍。次の攻略目標は松平容保が守る会津領。会津への侵攻ルートは幾つかあったが、名参謀・伊地知正治の案が採用され母成峠を越える道が選ばれた。旧幕府軍はそこまでこの峠を重要視していなかったようで守備が手薄だった。

新政府軍は猪苗代湖の真西に位置する中山峠(楊枝峠)に陽動部隊を配置し本隊は北の母成峠を目指す。

各軍の配置は以下の通り。

※兵数は典拠によってまちまちなので、ざっくりこれくらいのイメージで把握してほしい。

攻撃 新政府軍

総勢約3,000名

勝岩口(猿岩)
・谷干城:約1,000名

石筵本道口
・板垣退助、伊地知正治:約1,300名

山葵沢・達沢口
・川村純義:約300名

守備 旧幕府軍

総勢約800名

勝岩口(猿岩)
・大鳥圭介:約200名
・土方歳三、山口二郎(斎藤一) 新選組:約70名
・会津藩、二本松藩など:約100名

石筵本道口(母成峠を含めた本道沿いの台場を守備)
・会津藩主将・田中源之進:約150名
・二本松家老・丹羽丹波:約50名
・仙台藩、伝習隊など:約250名

母成峠古戦場

1982年(昭和57)発行 猪苗代町史 [第3集] (歴史編)より引用

母成峠では午前9時頃から7時間に及ぶ激戦が繰り広げられた。地の利は旧幕府軍にあったが、多勢に無勢。奮戦むなしく旧幕府軍は大原・木地小屋方面に敗走した。

現地案内板によると両軍の被害は、

新政府軍:死者25名

旧幕府軍:死者88名

であったという。

その後、新政府軍は猪苗代湖北岸経由で会津領に侵攻。そして悲劇の会津城攻防戦が始まる。会津城攻防戦にまつわる心霊スポットもあるから、これについての詳細はまたの機会にしようかと思う。

 

終わりに

母成峠古戦場

戦死した旧幕府軍の遺体は新政府軍の命令によって埋葬が許されなかったという。この惨状を見兼ねた住民たちがこっそりと遺体を集め仮埋葬した。草木に覆われ埋葬地の所在がわからなくなっていたが、1978年(昭和53)に猪苗代地方史研究会によって発見された。

その後子孫を中心として母成弔霊義会を結成し毎年慰霊祭を執り行ってきたが、昭和五十七年十月六日東軍殉難者慰霊碑建設と同時に長く保存することにしたものである。

現地案内板より

いちのまる
いちのまる

心霊スポットの噂があるから題材にしたけど、歴史を知ると『なんだかなぁ…』という何とも言えない気持ちになります。まぁ、実際に多くの人間が亡くなっている場所なので、幽霊が出ると噂する人の考えも理解できなくはないのですが。

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