立花山城は福岡市、新宮町、久山町に跨る立花山に築かれた山城です。
鎌倉時代、あるいは南北朝時代に豊後大友氏の一族・立花貞載が重要な貿易都市である博多を支配するために築城したと伝わります。戦国時代に入ると城主・立花鑑載が主家の大友宗麟を裏切り毛利元就に従ったため、宗麟は立花山城に戸次鑑連(道雪)と吉弘鎮信を派遣し、これを滅ぼします。
戸次鑑連(道雪)はそれまでの功績を認められ、1571年に立花山城を与えられ立花氏の名跡を継承します。
さて、今回は立花山城を巡りつつ、戸次鑑連やその娘・誾千代、また婿の立花宗茂について紹介しようと思います。
立花山城跡へのアクセス
なんとも説明が難しい場所にあります…。
google mapで立花山城跡と検索してナビしてもらいましょう。県道540号線沿いに『ようこそ立花山へ』という看板がある所にそこそこ広い駐車場があるのでそこを利用しましょう。
間違えて登山口に車で入ってしまうと面倒くさいことになります。

(私は車で登山口まで行ってしまい、下り坂を長距離バックで戻る羽目になりました)
まずは戸次鑑連(道雪)とその娘・誾千代について簡単に紹介します。
戸次鑑連は豊後国(大分)の大名・大友宗麟に仕えた猛将で、重臣の吉弘鑑理と臼杵鑑速と並ぶ三宿老に数えられました。
雷切や雷神の二つ名で呼ばれたりしますが、これは彼が千鳥という刀で落雷を斬ったという伝説が由来しています。ただ落雷のせいで半身不随になり、輿に乗って戦わなければならない身体になってしまったそうです。
影響力は凄まじく、この時代の豊後大友氏は彼によって支えられていたといっても過言ではありません。後述しますが、彼の死後、大友氏は見事に瓦解していきます。
男児に恵まれなかった戸次鑑連は1575年、娘の誾千代に家督を譲ります。この時、誾千代はまだ7歳でした。そのため1581年に大友氏の宿老、高橋紹運の長子・統虎を養嗣子に迎え入れます。
統虎は後の『九州の逸物』または『剛勇鎮西一』と褒め称えられた立花宗茂です。
理由はわかりませんが誾千代と立花宗茂の夫婦仲は険悪だったと云われることが多いです。子供ができなかったからでしょうか?残念ながら戸次鑑連および宗茂の直系はここで途絶えてしまいます。
1584年の沖田畷の戦い(島津・有馬vs龍造寺)で肥前の龍造寺隆信が戦死します。
大友宗麟は島津義久の自領への侵攻を見越し、戸次鑑連と高橋紹運に筑後(福岡南部)の攻略を指示します。戸次鑑連は多くの城を落しましたが、柳川城を攻めている最中に病没してしまいます。彼の死去によって大友軍は士気を失い、島津軍に付け入る隙を与えてしまいます。
1586年、島津軍は2万~5万の兵を率いて立花宗茂の実父・高橋紹運が守る岩屋城を攻撃。
籠城兵はたったの763名でした。
高橋紹運は見事な采配で城を守りますが、半月ほどで落城し兵は悉く玉砕し紹運は自害します。岩屋城は守り辛い城で固執する必要はなかったと云います。実際に立花山城を守備していた立花宗茂や黒田官兵衛に『退却して別の城に籠るべきだ』と言われていたそうです。
では何故、紹運ほどの武将が命を賭してここを守ったのか。
近くに控えている立花山城の宗茂、宝満山城の高橋統増(宗茂の弟)を守るためです。岩屋城の戦いの少し前に主君の大友宗麟が大阪城へ出向き豊臣秀吉に援軍をお願いしていました。そのため岩屋城に島津軍を引き付けておけば援軍が間に合い息子たち&主家が助かるだろうと考えたわけです。
岩屋城を攻略した島津軍は宗茂が守る立花山城へ進軍。しかし、岩屋城で受けた予想以上の被害と立花山城の堅牢さに攻めきれませんでした。そうこうしているうちに豊臣軍(毛利軍)が近づいていることを知り、島津軍は立花山城の包囲を解きます。
逃走する島津軍を宗茂は豊臣軍と協力し追撃しています。
その功績が認められた宗茂は秀吉から柳川城を与えられ、立花山城には毛利元就の三男・小早川隆景が入城しました。
そして1601年、福岡に入封した黒田長政(官兵衛の息子)が福岡城を築き、役目を終えた立花山城は廃城となりました。
終わりに
立花山登山口の手前にある梅岳寺。ここに戸次鑑連(道雪)は埋葬されています。
右奥が道雪の墓石です。真ん中に継母の養孝院。左手前が部下の薦野増時(こものますとき)。
薦野増時は才気あふれる人物で道雪は彼に惚れ込み入り婿させ家督を譲ろうとしました。しかしながら薦野増時は『後々お家が乱れる原因になる』といった理由で断ったそうです。
死後、道雪と墓を並べると約束していたのでここに埋葬されています。
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