大友宗麟の忠臣・高橋紹運はどうして岩屋城の戦いで玉砕を選択したのか?

岩屋城跡には壮絶な死闘が行われた過去がある。

多数の死者を出した場所は怨念の渦巻く地として心霊スポットに扱われがちだが、岩屋城にはそのような噂を殆ど聞かない。

(中には心霊スポットとして紹介しているサイトもある。)

オカルト界隈の恰好のネタになりそうな場所であるにも拘わらず何故心霊スポットの噂が流れないのか?

それはここを死守した偉大な武将が多くの人々から尊敬を集める人物だったからだと私は考える。

武士としての立派な生き様は今も尚人々の心を射止めている。

それでは岩屋城の歴史とこの武将について紹介しよう。

 

岩屋城へのアクセス

岩屋城

岩屋城は太宰府天満宮のすぐ近くに位置している。

西鉄太宰府線の太宰府駅から県道35号線を北へ進むと右に大きく曲がるカーブがある。

左側に赤い小さな橋が見えて来るので、狭い道ですが橋を渡って道なりに進むと到着する。

 

岩屋城と高橋鑑種

岩屋城

岩屋城は戦国時代、16世紀半ば頃に宝満山城の支城として豊後大友氏家臣の高橋鑑種(あきたね)が築城したと伝えられている。

高橋鑑種は一萬田氏の一族で後に筑後高橋氏を継承。

一萬田氏は大友氏の流れを汲む有力な一族で、鑑種の名は大友氏20代目義鑑から『鑑』の字を賜ったものである。

義鑑の息子、宗麟の代には大宰府一帯の支配を認められ城の築城を許された。

戦が強く優秀な武将として知られており、大友家臣の中でもかなり重要なポジションにいたはずなのに…。

鑑種は中国地方の毛利氏が北九州に侵略してから暫くすると大友氏から離反し毛利氏に付き従った。

何故、大友氏を裏切ったのだろうか?

 

岩屋城

俗説では、

鑑種の兄、一萬田親実の妻を大友宗麟が無理やり奪って、それに激怒した親実が謀反を起こす。
宗麟は討伐を命じこれを殺害した。
弟の高橋鑑種が恨みを抱いて、チャンスがあったら裏切ってやろうと思っていた。

しかし、これの根拠は黒田氏(官兵衛の子孫)が編纂した古文書や江戸時代の書物に記されていることなのでちょっと怪しい。

この事件後も鑑種は大友氏の下で活躍している。

他には、

宗麟の弟(義長)は大内氏の後を継いだが、毛利氏に攻められ自害したため、宗麟が弟を見殺しにしたと感じた。
このとき鑑種は義長の配下として動いていたので大友氏を見限った。

宗麟は義長に『大内氏を継ぐのは危険だからやめとけ。』と伝えたらしいが。

謀反の理由は複雑で正確なことは分かっていないけれども、宗麟に不信感を持っていた、単純に毛利氏の恐ろしさを知っていたので靡いた、或いは北九州で下剋上を狙ったのかもしれない。

 

岩屋城

さて、裏切った後の高橋鑑種。

毛利氏は中国地方の尼子氏が動き出したため一時的に北九州から撤退している。

後ろ盾を失った鑑種は止む無く大友氏に降伏するしかなかった。

でも殺されなかった。

高橋の名は剥奪されてしまったけれど、何故か生き残って1579年に病没するまで毛利氏の配下として活動を続けている。

なんと小倉城主になる程に。

上手く落ち延び毛利氏に匿われたのだろうか?

続いて岩屋城にやってきたのは吉弘鎮理(しげまさ)、後の高橋紹運(じょううん)である。

 

岩屋城と高橋紹運

岩屋城

高橋紹運は豊後大友氏の三老の一人である吉弘鑑理(あきまさ)の三男坊。

高橋鑑種の後釜として宝満山城と岩屋城を引き継ぎ、立花道雪と共に筑前国の支配を任されることになった。

高橋紹運と立花道雪といえば高橋統虎と立花誾千代の二人を思い浮かべる方が多いだろう。

統虎は紹運の長男で後の立花宗茂、誾千代は道雪の一人娘。

跡継ぎがいなかった道雪は前々から有能と噂されていた統虎を婿にと紹運に無理を承知に頼み込んだ。

紹運としては高橋氏の跡継ぎにと考えていた矢先に、大友氏の伝説的な重臣・立花道雪が頭を下げ必死に懇願してきたのである。

そこまでされたら『承知仕った』と言わざる終えなかった。

こうして統虎は立花の名を高橋の名は紹運の次男・直次が継ぐことになった。

道雪は立花姓を名乗らず戸次姓を名乗り続けたので統虎も初めは戸次を名乗っていたらしい。

これで道雪の後継者が出来”後の世まで子孫は繫栄した”となればよかったが…。

統虎と誾千代は不仲で半ば離婚と状態になり最後まで子供が出来なかった。

道雪から正式に立花氏の家督と立花山城を引き継いだ女城主の誾千代としては、突然やってきた統虎にそれを奪われて気に入らなかったのかもしれない。

少々、脱線してしまったので、話を戻そう。

 

高橋紹運玉砕!岩屋城の戦い

岩屋城

1585年。

豊後大友氏の大黒柱、立花道雪が陣中で病死する。

この死を待っていたかのように薩摩国の島津氏は北上を開始し大友氏の領地を蹂躙し始める。

この流れで岩屋城の戦いが始まった。

島津軍は島津忠長、伊集院忠棟が率いる2万~5万(諸説あり)の大軍、対する高橋紹運は紹運以下763人の籠城兵。

立花宗茂や豊臣家臣の黒田官兵衛は『岩屋城は防御が薄いから別の城で戦った方がよい。』と撤退を求めたが紹運は譲らず岩屋城で戦い続けた。

2週間に及ぶ激戦の末、高橋紹運の自害と城兵763人玉砕で幕を閉じた。

享年39。

辞世の句は、

流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水

 

岩屋城

何故、高橋紹運は岩屋城で戦うことに拘ったのか?

これは武士として、そして子を持つ親としての決断だったと思われる。

恩義のある主君を存続させるためにはどうすべきか?

主君が大阪へ行き豊臣秀吉に助けを求めているのは知っていた。

だが、それ以外の情報は無く、援軍が来るまで誰かが時間稼ぎしなければならなかった。

『岩屋城ではなく宝満山城や立花山城に籠って耐えればいいのでは?』とも考えられるが、それでは援軍が来る前に筑前国の領地が全て奪われ九州全土を島津氏に掌握されてしまうかもしれない。

そして何より息子たちの守る城々が落とされれば彼らがどうなってしまうかもわからない。

自分が犠牲になって僅かな時間でも足止め出来れば何かが変わるかもしれない。

そう考えた紹運は玉砕覚悟で籠城した。

島津軍が岩屋城を落城させるのに2週間、態勢を整えるために時間を割き、立花山城を攻略を目指したその頃に豊臣の援軍が到着した。

これにより豊臣・大友連合軍は逆襲に転じて島津軍を薩摩国まで追い払うことに成功している。

もし岩屋城で高橋紹運が戦わなかったら立花山城まで攻略され、大友氏は壊滅していたかもしれない。

 

終わりに

岩屋城はこの戦いのあと廃城になったと云う。

玉砕覚悟の戦闘に763名の兵が従ったのは紹運の武将としての徳が高かったからであろう。

島津氏も紹運の戦いぶりに感服し『まだ死ぬには惜しいから降伏してくれ!』と何度か勧告したらしいが『私の信念は揺るぎません!』と死ぬまで戦い続けた。

玉砕を賞賛するつもりは全くないけれど、こういう物語を聞くと心が熱くなるような思いする。

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