豊薩合戦・戸次川の戦いは豊臣秀吉による九州平定(1586年~1587年)の緒戦です。
戸次川は、大野川の末流にして、利光川とも犬飼川とも云、地圖を按するに、大野川の川尻、利光に至て東西に分れて、中津留、戸次の市、川床、楠木生等の村を包手みて、高田に至て一つになりて、やがて又二つにわかれて高田、常行、鶴崎等を包みて、北海に入る。されば此川筋に二つの川島あり、されども戸次の市の東を流るる方は、水なくして、洪水の時のみ流ると云。(太宰管内志)
1927年発行 帝国在郷軍人会大分支部 大分聯隊区管内に於ける郷土戦史の研究 第1輯より

大野川の下流の一部(戸次周辺)が戸次川と呼ばれていたのかな。
戸次川の戦いまでの経緯
耳川の合戦(1578年)や沖田畷の戦い(1584年)で勝利を収めた薩摩国の島津氏は九州統一を目指し進軍。
それに抵抗するため豊後国の大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めますが、秀吉は織田信雄、徳川家康と対峙(小牧・長久手の戦い)していたため九州へ兵を送ることが出来ませんでした。
島津氏の勢いをどうにか抑えていた大友氏でしたが、重臣・戸次鑑連(立花道雪)の病死をきっかけに流れが変わります。戸次鑑連は大友氏の全盛期を支えた最も重要な家臣の一人でした。彼については↓の記事で少し触れているので、お時間がある方はご覧下さい。
戸次鑑連の死を知った島津氏は筑前(福岡西部)に侵攻します。高橋紹運が守る岩屋城の戦い(1586年)で島津勢は勝利するものの、予想以上の被害を受けたため攻略目標であった立花山城を攻めれずに撤退を余儀なくされています。
島津勢は軍を立て直したあと日向(宮崎)、肥後(熊本)方面から大友領に攻め込みます。大友氏は奮戦するも島津氏の猛攻に対応できず追い込まれていきました。
そのとき待ちに待った豊臣勢の援軍(仙石秀久、長宗我部元親・信親、十河存保など)がやってきます。
島津軍に攻撃されていた鶴賀城を救援するため鏡城に入り評定を開きます。

鏡城から南東の位置、戸次川対岸に鶴賀城はありました。↓に引用した地図の赤い矢印が鏡城、緑の矢印が鶴賀城です。
豊臣秀吉は『門司(北九州)に毛利、吉川、小早川の中国勢が構えているのだからじっくり豊後の守りを固めて島津を追い込もうぜ!』という作戦を考えていたようです。
国土地理院地図を編集して引用
戸次川の戦いについて
此川九州一の大河にて、頗る難所なり。然りと雖大勢に切所なし。何ぞ怖るるに足らん。いざや諸軍一同に渡して、一戦に勝負を決すべし…
土佐物語 国史研究会編 巻第十五 四九〇頁より
仙石秀久は『戸次川は難所だけど人数いるし怖れることはない!』と言いました。
此川を渡さん事、以の外の大事なり。敵川端を引退きて備へたるは、堤の陰に伏兵ある事疑なし。川の半途にして、鐵炮を打ち立つるものならば、先陣は一人も、生きて歸る者あるべからず。
土佐物語 国史研究会編 巻第十五 四九〇頁から四九一頁より
長宗我部元親は『不用意に川を渡ったらやばいよ。』と仙石秀久に反対します。
三好隼人正存保進み出て、仙石殿の仰其理あり。
土佐物語 国史研究会編 巻第十五 四九一頁より
十河存保は仙石秀久の意見に賛成。
結果『戸次川を渡り鶴賀城の援軍に向かう』に決定します。

長宗我部元親は四国平定で豊臣秀吉(仙石秀久)に降伏しているし、十河存保は長宗我部元親に居城を落された過去があるので、とても仲が悪そうです。秀吉はなんでこの組み合わせにしたんだろう?
戸次川の戦いの結果
結論から言うと島津勢の圧勝で終わります。
長宗我部元親の提言が的中し、先陣が戸次川を渡ったところで伏兵の銃撃に遭い壊滅、後陣はこれを見て引き返そうとしたところ島津勢は早々に川へ入り追撃します。土佐物語によると仙石秀久は小倉の城へ、大友義統は妙見龍王の城へ逃げ込んだとあります。
長宗我部勢の3000騎は新納忠元率いる5000騎と戦いました。善戦するも多勢に無勢、しかも相手は百戦錬磨の島津氏です。戦闘中に元親、信親父子は離れ離れになってしまいます。
元親は伊予国日振島に命辛辛落ち延びますが、信親は敵に囲まれ徹底抗戦します。信親の兵700騎は我先にと勇敢に駈け出てほとんどが戦死、信親も鈴木内膳という武者に打ち取られてしまいます。まだ22歳でした。
十河存保もこの戦いで討ち死にしています。
そして秀吉の怒りを買った仙石秀久は改易に。※後に許されて復帰します。
おわりに
戸次川の戦いのあと島津軍は鶴賀城、鏡城、そして大友義統の府内城を落とします。この時。大友氏は滅亡こそしませんでしたが、ほとんど壊滅状態になってしまいます。
九州統一に王手の島津氏。しかし制覇は間に合わず。
1587年、豊臣秀吉は九州に向けて大軍を派遣します。
島津軍は大友攻めを諦め撤退。日向(宮崎)で起きた根城坂の戦いで敗北し、手薄な九州西部から豊臣勢に攻められ降伏します。こうして九州は統一され、秀吉は関東地方、そして東北地方の攻略に乗り出すのです。
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