『歴史に名高い新田義貞』は南北朝時代に活躍した群馬県出身の武将です。
彼は腐りきった鎌倉幕府を攻め滅ぼすという偉業を成し遂げました。
幕府滅亡後、新田義貞は後醍醐天皇のために尽くすのですが、朝廷では『この田舎武将が!』と天皇やその取り巻きに虐げられてしまいます。
そして、最後はライバルの足利尊氏に敗北し、尊氏が室町幕府を開くという偉業を果たしたため義貞はかませ犬的なポジションになってしまいました。
そんなわけで現在の評価はかなり低く、愚将あるいは凡将などと散々いわれています。
しかし群馬県民にとって新田義貞は群馬随一の英雄であり崇められる存在なのです。私も例外ではなく彼を馬鹿にされるとなんとなくイラっとします。
てなわけで、今回は新田義貞にゆかりのある新田荘を散策してきました。
それでは参りましょう!
新田荘遺跡について
新田荘は新田氏が群馬県太田市一帯を開拓した荘園のことを指します。そして新田氏遺構群のうち11ヶ所が国の遺跡に指定されています。それではまず新田氏および新田義貞を知るために荘園と武士の誕生について見ていきましょう!
新田義貞に関する歴史を長々と述べた後に新田荘遺跡を紹介いたしますので、長文を読むのが面倒くさい方は飛ばしてください!
荘園の歴史について
荘園の誕生は飛鳥時代(646年)の大化の改新まで遡るとわかり易いです。この改新で日本の国土と人民は天皇の所有物と決められ民衆に農地を貸し税を徴収しました。それから朝廷は『6歳以上の民に農地を与え死ぬと国へ返還される』という班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を定めます。
しかし『一代で返還されてしまう』『徴兵で耕作できない』『税の支払いがキツイ』といった具合で農場を放棄し逃亡する人が多数出てしまいました。奈良時代に入り税収を確保できない朝廷はこう考えました。「三世代まで農地所有を認めてやろう!そうすればやる気出すだろう」と。これが723年の三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行です。
三世一身法で改善されることを願った朝廷ですが、これもうまくいきませんでした。理由は『期限付きだと農民がやる気を起こさずサボる』といった感じ。そして朝廷は『期限とか設けないから。頼むから働いてくれよ……』と呟き、743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)発布します。
この法律に目を付けたのは農民ではなく貴族や寺社の金持ち連中でした。彼らは期限がなくなったことで半永久的に稼げると理解し働き手を雇い新地を開拓して資産を増やします。朝廷としても税金がコンスタントに入ってくるので結果オーライ。この新地が荘園の始まりです。
荘園と武士の関係
さて次は荘園と武士の関係を見てみましょう。
金持ち達は働き手を雇って荘園をどんどん拡大します。すると金持ちの中でこんなことを考える人が出てきました。『あ~。領地が広がるのは嬉しいけど、税金高いなぁ。節税できないかな?あっ!確か摂関家の藤原さんの荘園は免税されてるよな?これは使える!』
ということで金持ち達は藤原氏に名前を貸してくださいと頼み税金対策を狙います。そしてこれがはまり瞬く間に流行っていきます。金持ち達は藤原氏に名義を借りるために金を払うけれど税金よりは安い。しかも藤原氏の領地となれば国司も迂闊に入れない。
もともと摂関家の藤原氏は恐ろしいほどの権力を持っていました。それに加え貴族や寺社などの金持ち達とのやり取りで朝廷を脅かすほどの力を付けてしまいます。絶大な権力を持った藤原氏は朝廷とほぼ同格になり各国に支配者を送るまでになります。
しかし彼らが派遣した国司(一国の支配者)は民衆に重税を課したり、略奪を繰り返します。そして彼らの横暴から身を守るため農民達が武装。これが武士の始まりです。そして時代が進み武士は組織化します。始めは自衛のために結成しましたが、いつの頃からか彼らも国司と同様に略奪するようになっていきます。
組織化した武士達は統率力を求め棟梁を探し始めます。ここで彼らが目に付けたのは国司です。国司は基本的に皇族から臣籍降下した人物が派遣されていました。血筋は良かったけど生まれたタイミングが悪く皇族でいられなかった人たちですね。京では偉くなれなかったけれど、地方に行けばTOPになれるわけです。味を占めたいくつかの国司は任期満了後に帰らず武士の棟梁として地方に居座り始めます。ちなみに源平合戦で有名な平氏や源氏の始まりは地方で武士達に持ち上げられた国司です。
武士組織が拡大していくと皮肉にも朝廷や藤原氏の勢力が弱まっていきます。こうして武家政権が席巻します。
新田義貞の家柄
さて次は今回の主人公新田義貞について。まずは新田氏の起源である清和源氏の成り立ちを簡単に見てみましょう!
清和源氏は平安時代前期を生きた清和天皇を祖としています。清和天皇の第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の息子である経基(つねもと)が臣籍降下して『源』を名乗りました。彼については【平将門の記事】で少しだけ触れていますので時間がある方はどうぞ。
そして源経基の子孫・源義重が上野国新田荘を本拠地にしたことから新田氏が誕生します。
かなりざっくり説明しましたが、まぁ複雑です。でも有名な戦国大名が清和源氏の家系を調べると楽しいです。
新田義貞について
名家・清和源氏の血を引く新田義貞は1300年くらいに群馬県で生まれ1338年に福井県で亡くなりました。歴史年表的には鎌倉時代後期~南北朝時代を生きた人物ということになります。
新田義貞が家督を継いだ頃の新田宗本家はボロボロで酷い状況だったようですが、義貞はこれをどうにか持ち直します。没落寸前のお家を建て直すということは非常に困難なことなので、それなりの内政力や人望はあったようです。
1331年、後醍醐天皇を中心とした打倒幕府の戦い『元弘の乱』では鎌倉幕府の警護を任されます。その後、河内国(大阪東部)で後醍醐天皇に呼応した楠木正成が挙兵すると幕府に命じられこれを討伐しに向かいます。
この段階ではまだ鎌倉幕府側に従軍していたことがわかります。しかし突然何を思ったか義貞は幕府に『病気になったから帰る!』と無断で群馬に帰ってしまいます。どうやら後醍醐天皇から討幕のお便りが届いていたみたいです。
新田荘に戻った義貞は天皇からの誘いもあり今後について思い悩みました。そんな中、鎌倉幕府は楠木正成討伐の軍資を集めるため徴税の使者を各地に出します。そして義貞は徴税の使者とケンカになり使者を斬り殺し世良田宿に首を晒してしまう。
幕府は怒り大爆発!報復として義貞の所領の一部を没収。義貞は幕府が新田討伐を画策していると聞き入れると『やられる前にやったる』という感じで義貞は生品神社にて決起・挙兵します。
※決起場所は諸説あり。集まった兵は150騎と伝わっています。後醍醐天皇の『元弘の乱』は失敗に終わり天皇は隠岐島(島根県の離島)に流されてしまいます。
打倒鎌倉幕府!
隠岐島に流罪になった後醍醐天皇は名和一族に助けられなんとか脱出。後醍醐天皇が流された後も討幕軍は下火にならず各地で暴れていました。有名どころだと河内の楠木正成や播磨の赤松則村、後醍醐天皇の皇子……etc.
挙兵した義貞はまず上野守護所(安中市の板鼻付近だと思われます)を攻め落とし、そこで一度態勢を整えます。ここで越後や信濃で義貞挙兵の噂を聞きつけた新田一族が加わり、最終的に7000騎程の軍勢に膨れ上がったと伝わっています。
足利尊氏について
新田義貞を語る際に欠かせない人物『足利尊氏』について簡単に説明しておきます。足利尊氏はご存じの通り室町幕府の初代将軍です。生まれは栃木県といわれてきましたが、最近の研究では京都府生まれとなっているようです。
義貞と同じ清和源氏の流れで栃木の足利荘治める御家人でした。
※源義国の息子の源義重(兄)が新田氏、源義康(弟)が足利氏。
残念ながら新田氏と足利氏はめちゃくちゃ仲悪かったそうです!もし仲が良かったら新田義貞はもっと英雄になっていたかもしれませんね。義貞挙兵時に足利尊氏は幕府に命じられて後醍醐天皇討伐のために西国へ上洛していました。そして息子の千寿王(二代将軍足利義詮)とその母はこの時人質として鎌倉幕府に送られていました。
そんな尊氏も後醍醐天皇の誘いを受けていて幕府に反旗を翻し、京都にて六波羅探題を壊滅させます。※六波羅探題は京都の守護で朝廷の監視、裁判所、警察の役割を果たす機関です。
鎌倉幕府滅亡
さて新田義貞の話に戻りましょう。準備を終えた義貞が利根川を渡って鎌倉へ向かう途中、足利尊氏の息子『千寿王』と出会い合流。人質として鎌倉幕府から脱走してきたため兵の人数は少なく200騎程だったといわれています。
しかし当時超有名人の足利尊氏の息子が加わったことによって続々と兵が集まりおよそ20万騎までに膨れ上がりました。
幕府軍との最初の戦いは『小手指原の戦い(埼玉県所沢市)』で結果は義貞軍の勝利。その後、『久米川の戦い(東京都東村山)』で小競り合いがあるものの幕府軍を分倍河原まで撤退させます。次の戦いは『分倍河原の戦い(東京都府中市)』。
劣勢の幕府軍は鎌倉から10万の援軍を得て北条泰家を大将とします。そして最後の要害多摩川沿岸で新田軍を迎え討ちます。
分倍河原の戦いの初日は援軍で士気高まる幕府軍に新田軍は圧倒され敗退、撤退します。その晩、相模国(現神奈川県)の三浦義勝が新田軍の援軍として参加。緒戦に勝って油断している幕府軍に急襲を掛け勝利します。
地元に詳しい国人衆が敵に回った幕府軍はどうすることもできませんでした。しかもその頃、京の六波羅探題が落ちたという報告が入り幕府軍の士気はガタ落ちします。
分倍河原の戦いで勝利した新田軍は多摩川を越えて『関戸の戦い(東京都多摩市)』で北条泰家を蹴散らし鎌倉へ接近。鎌倉を総攻撃する際、義貞は『化粧坂切通』『極楽寺坂切通』『巨福呂坂切通』と部隊を3つに分けます。ここを突破されたら滅亡確実な幕府軍はこれらの切通しを死守します。
義貞本人は『化粧坂切通』を攻めていましたが、しばらくしたあと『極楽寺坂切通』の南にある稲村ヶ崎に目を付けます。ここは海岸沿いで狭く大軍が通れない上に海から弓矢で幕府艦隊が狙ってくるという厳しい場所でしたが奇跡が起こります。
この奇跡を稲村ヶ崎伝説といいます。内容は以下の感じ。
『稲村ヶ崎で攻め倦んだ義貞は海に向かって拝みます。そして太刀を海に捧げた瞬間に一斉に潮が引きました。引き潮の影響で幕府軍の船は沖に流され、さらに道が開きます。この奇跡に乗じて一気に鎌倉へ攻め込みました』
諸説ありますが、何かしら奇跡が起こって突破出来たということですね。突破後の『由比ヶ浜の戦い』で幕府軍を挟撃し『東勝寺合戦』にて北条高時、重臣などを追い詰め自害させます。こうして新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼし一躍有名人になります。
その後の新田義貞
新田義貞の最大の功績は鎌倉幕府を滅ぼしたことでしょう。しかし足利尊氏の息子が加わっていなかったらどうだったでしょうか?群馬県出身の私としては『鎌倉幕府滅ぼした新田義貞すげー!』と無条件に誇りたいのですが、恐らく義貞だけでは勝てなかったでしょう。でもこの記事では新田義貞が幕府を滅ぼしたってことにしておきましょう!
討幕を企てたBOSSの後醍醐天皇は自身が全てをコントロールすべく今までの人事、幕府、摂関を廃し『建武の新政』を開始します。建武の新政は武士と公家を一つにまとめ天皇を中心とした中央集権国家を目指したものです。
しかし建武の新政は大失敗に終わります。もともと武士嫌いだった後醍醐天皇が武士と公家を平等に扱えるはずもなく、公家優先の社会に傾き武士の反感を思いっきり買います。
ちなみに新田義貞はこの政権で武者所(天皇親衛隊)の長官に任命されました。上野、越後守護。その他諸々を兼任しています。地方のさほど有力ではない武将がこれだけの立場に就けたのは凄いことなんですけどね。ただライバルの足利尊氏は義貞より高い位に就いています。
足利尊氏の裏切り
そして1335年に中先代の乱が起きます。この戦いは信濃国(長野)で密かに北条氏の復興を目指す北条高時の息子・時行が軍を集め一時的に足利氏が守る鎌倉を奪還したものです。まもなく足利尊氏が西国から出陣し(天皇の許可を得ずに)あっという間に鎮圧します。
しかし尊氏は京に戻らず鎌倉に居座ります。後醍醐天皇が『帰ってこい!』と言っても無視。さらに勝手に恩賞の分配を始めます。義貞等の許可なく新田氏領を配下に与える始末。なんと本拠地の新田荘までも。
そして、尊氏はどさくさ紛れに天皇に物申します。『義貞はあなたをだましています。この期に義貞を討ちましょう!』と。
謎の濡れ衣を着せられそうになった義貞ですが即座に『尊氏の方が悪くない?』と反論。
当然、義貞の意見が取り入れられ、尊氏討伐が始まります。義貞は実質総大将の立場でしたが、自身より身分が高い人物が軍内にいて思うような戦ができませんでした。
一方の尊氏は『あぁ……。もう駄目だ。人としてやってはいけないことをしてしまった』とほざき、北条氏に鎌倉を奪還された際に幽閉されていた天皇の息子を殺害したり、後醍醐天皇に逆らったりしたことを酷く後悔して落ち込みました。そしてひきこもりました……。
足利関係者:『(;゚д゚)エェェエェェェ……』
尊氏が引きこもろうが討伐軍には関係ありません。1336年に『矢作川の戦い(愛知県岡崎市)』で新田義貞と足利直義(尊氏の弟)がぶつかります。この戦いは新田軍の勝利で足利軍は後退。次の『鷺坂の戦い(愛知県豊川市?)』も新田軍の勝利。続いての『手越河原の戦い(静岡県静岡市駿河区)』は激戦の末、新田軍が夜襲を仕掛けて成功して新田軍は連勝。足利軍は鎌倉まで撤退しました。
伊豆国府(静岡県三島市)を占領した義貞はここで休憩を取ります。破竹の勢いで進軍する新田軍。そんな自軍と新田軍を見た引きこもりの尊氏は……。
尊氏:『直義よ。お前らに死なれたら困る。わしも戦うぞ!』
足利関係者:『(;゚д゚)エェェエェェェ……』
新田兄弟vs足利兄弟
ハイになった足利尊氏は箱根峠と足柄峠の守りを固めます。一方新田義貞は伊豆国府で軍を二手に分けて進軍。
【箱根峠】新田義貞vs足利直義
【足柄峠】脇屋義助vs足利尊氏
という感じです。
脇屋義助は義貞の弟。兄弟対決です。
箱根峠は新田軍優勢。足柄峠は足利軍優勢。それぞれお兄さんが頑張ります。しかし脇屋義助が敗退したことで退路を断たれると考えた義貞は箱根口で大勝したものの退却。この作戦が裏目に出て軍内で裏切りが多発します。こうしてあっけなく新田軍は総崩れ。
ここから尊氏の猛追撃が始まります。なんと新田軍を追いかけ回して京まで進軍しています。尊氏恐ろしや……。そのままの勢いで京を占拠してしまいます。
新田義貞と楠木正成
しばらく京を巡る戦いが続きますが北畠顕家や楠木正成の活躍で最終的に足利尊氏が敗走して九州へ遁走。尊氏討伐が開始され、まずは尊氏側の播磨・赤松氏を攻めます。この時のエピソードが義貞の評価を著しく下げています。
なんと義貞、色恋沙汰に惚けて討伐軍に遅参してしまいました。
※病気の説もあり(私としては、病気であってほしい)
この遅延だけが原因とはいえませんが、結果として尊氏に反撃の猶予を与えてしまいます。尊氏に追われて兵庫まで退却した義貞は楠木正成と合流。この時、二人は酌み交わし互いに思うことを吐露したと伝わります。楠木正成は義貞のことが大っ嫌いだったらしいので愚痴ったのかもしれませんね。
湊川の戦い(兵庫県神戸市)で新田・楠木軍と足利軍がぶつかります。多勢に無勢で新田・楠木軍は敗北。この戦いで楠木正成は自害。義貞は敗走。素人目に見ても『なんでこの布陣にした?』って感じです。何かしらの思惑があったのでしょうが、足利軍に囲まれて敗北しています。
室町幕府と南北朝時代の始まり
その後、尊氏は京を占拠。後醍醐天皇は比叡山へ避難。義貞は京奪還を狙いましたがうまくいきません。そんな中、尊氏は後醍醐天皇と和解します。尊氏は三種の神器を受け取り、光明天皇を擁立(北朝)し建武式目を制定。
室町幕府の始まり。
後醍醐天皇は『あの三種の神器は偽物でしたぁ~。ばぁか!』と言い放ち京を脱出して奈良の吉野に朝廷(南朝)を開きます。
これが南北朝時代の始まり。
義貞北陸へ
新田義貞は北陸へ向かいます。なんで北陸に向かったのかはわかっていません。尊氏と後醍醐天皇が秘密裏に和解したことに対し、裏切られたと怒った義貞が妥協策で『恒良親王と尊良親王と共に北国に行かせてくれ』と提言したともいわれているようですが、よくわかりません。
『あなた(天皇)と尊氏から距離を置かせてください。力を蓄えてまた戦います。恒良親王と尊良親王がいたら便利です!』ってことなのかな?
そして、義貞は金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入城。義貞のことが大っ嫌いな足利尊氏は容赦なく攻めてきます。どこまでも追ってきます。むしろ好きだったのかもしれません。新田軍は善戦しますが、次第に兵糧が尽き敗走。尊良親王は自害。恒良親王は捕虜。義貞は杣山城へ。恒良親王と尊良親王が義貞の元から離れたため足利軍の攻撃は下火になります。
義貞死す!
1337年に奥州(東北)から北畠顕家が上洛してくると後醍醐天皇から『今が好機!南朝勢、今こそ立ち上がれ!』と命令が下ります。しかしながら南朝勢の連携はうまくいかず善戦するものの1338年6月に北畠顕家は戦死。
新田義貞は1338年8月、越前国藤島にて足利勢と小競り合い中に戦死してしまいます。この死は犬死とまでいわれています。田んぼで身動きが取れなくなり矢を撃たれて死亡。突然の虚しい死でした。これで新田義貞についてはおしまい。
義貞って散々ぼろくそ言われてるけど凡将ではないでしょ?むしろ現代でさえ日本の秘境『グンマー』とか馬鹿にされる場所からここまで行けたのは凄いことだと私は思います。
その後、南北朝時代は1392年に合一されるまで続きます。時の将軍は足利義満でした。80年後くらいに謎の戦乱『応仁の乱』が起きて戦国時代に突入。
新田荘遺跡11ヶ所を紹介する
かなりの長文になりましたね。続きましては国の史跡『新田荘遺跡11ヶ所』の紹介です。
写真と簡単な説明を書きましたので興味がある方は最後までお付き合いください!
1.矢太神水源
この辺りは大間々扇状地の扇端部で湧水地が多いです。その中で最も豊富な水量を誇る矢太神水源は新田荘の開発に深い関わりをもちました。
ここにはニホンカワモズクという大変珍しい紅藻類が生息しています。かつて海だったここに残された海藻が進化して淡水に対応したのではないかといわれています。
2.重殿水源
重殿水源も矢太神水源同様に新田荘開発、運営に使われたといわれています。
また鎌倉時代には重殿水源から出た用水堀を巡っての諍いが起き、幕府が裁判、判決した関東裁許状という史料が残っていることから歴史的に重要な史跡として指定されています。
3.御室山 金剛院 円福寺境内
円福寺の山門。山門扁額の文字は江戸時代後期に別所村(現・太田市別所町)を知行していた筒井政憲という幕臣が書いたものです。
筒井政憲は江戸時代後期の人物で目付、遠国奉行、町奉行、大目付を歴任した行政官。ロシアとの外交戦で活躍し、日露和親条約を締結させました。
円福寺本殿。
真言宗の円福寺は新田本宗家4代目の新田政義によって創建されました。
新田氏累代の墓。
五輪塔地輪部に『沙弥道義(しゃみどうぎ)七十二逝去』の銘文があります。
これは新田義貞の祖父・新田基氏の法名ではないかといわれています。この時代で72歳って長生きですね。
4.十二所神社境内
内部は見られませんでした。
十二所神社本殿には16体の神像が安置されています。いくつかの神像に1259年の銘があるそうです。
5.威徳山 陀羅尼院 総持寺境内
総持寺の山門。総持寺は真言宗のお寺です。
総持寺は太田市の世良田という場所にあります。
世良田は新田荘の経済的、文化的中心であったことと昭和初期まで周辺に存在していた土塁跡から『新田氏本家の館がここにあったのでは?』と推定されています。
ちょこんとある唐破風がかわいいです。
1731年に鋳造された総持寺梵鐘。
乳の間に乳がない『いぼなしの鐘』といわれています。乳は『ちち』ではなく『ち』と読みます。梵鐘の上帯にあるいくつかの突起を乳といい、乳がある帯を乳の間と呼ぶみたいです。
googleで『梵鐘 画像』で調べると『こんなんあったね!』ってなると思います。
6.世良田山 真言院 長楽寺
長楽寺の山門。
この蓮池は心の文字をかたどって造られたことから心字池ともいわれます。
勅使門は天皇の使者や幕府のお偉いさんが参拝する時だけに開かれる門でした。故にあかずの門とも呼ばれます。
またその色から赤門とも呼ばれているそうです。もともとは隣接する世良田東照宮付属の門でしたが明治期の神仏分離政策によって長楽寺所属になりました。
太鼓門。寺の行事の際、楼上に太鼓を掛けて合図しました。
長楽寺三仏堂。お堂には右から釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が安置されています。
これらは過去、現在、未来を表す三世仏と呼ばれています。諸説あって阿弥陀如来を過去仏、釈迦如来を現在に置くものもあります。私はこっちの方がしっくりくる。
長楽寺本堂。宗派は天台宗です。
開基は世良田義季(得川)でもともとは臨済宗のお寺でした。世良田義季は清和源氏新田氏支流の世良田/得川氏の始祖。
江戸幕府を開いた徳川家康が『自分は世良田/得川の子孫だ!』と伝えたことは歴史好きな人にとっては余りにも有名な話ですね。家康本人も一時世良田を名乗ってますね。
長楽寺開山堂。開山堂はその名の通り寺の開山を祀るお堂です。
下の丸い石碑にはおそらく開山栄朝大禅師と書いてあります。
7.明王院境内
呑嶺山明王院安養寺。真言宗のお寺です。
1061年に後冷泉天皇の勅令で源頼義が開基となり、奈良の興福寺から頼空上人を招いて開山されたと伝わっています。新田氏始祖の源義重が中興の祖となり、八代目新田義貞が後醍醐天皇の勅により大寺院として再建。上の写真は不動堂で二体の不動明王像が安置されています。
二体の像にはそれぞれ伝説があります。一つを新田触不動尊といい義貞が鎌倉に攻め入る際、不動明王が山伏に変身して新潟方面の新田一族に触れて周り援軍を呼んだという伝説。
もう一つは背後に火炎のない珍しい不動明王。もともと戦の指揮を執る新田義貞を見立てて彫っていたが、一夜にして不動明王に変化したという伝説。
千体不動尊供養塔。
どういう理由で建てられたかは銘文が磨滅していて不明ですが、この地域でお不動信仰が盛んに行われていたことを偲ばせる史跡です。建てられた時期は江戸時代中期とのことです。この不動明王は背後の炎がありません。
8.生品神社
生品神社は新田義貞挙兵伝説の地として名を馳せています。神社の歴史はかなり古く、平安時代に編集されたといわれる上野国神名帳に名が記されています。これによると神階は従三位で生階明神と呼ばれていたそうです。
新田義貞床机塚(しょうきづか)。
床机は肘掛のない簡単な椅子のこと。バーベキューとかでよく使われる折り畳みの椅子をイメージしていただいたら分かりやすいかな。陣中、儀式などで使われたものです。
新田義貞旗揚塚。
神代木。新田義貞がこの木に旗を掲げて戦勝祈願したそうです。
9.反町館
反町館は鎌倉時代から南北朝時代に築城され1590年の豊臣秀吉による小田原征伐後で廃城。
現在は反町薬師で知られる照明寺(しょうみょうじ)が建っています。新田義貞がここを居城にしていたと伝わります。
反町館跡には当時の土塁や大規模な堀が現存しています。一番下の写真は寺の入口付近にあった階段跡です。いつごろの階段か気になります。
10.江田館跡
新田義貞の遠縁にあたる江田行義が居城にしていた館です。
鎌倉北条氏討伐の際には義貞と共に戦い活躍しました。討幕後は西国で足利尊氏と戦うが、その後の詳細はわかっていません。一説には広島辺りへ逃れてひっそりと農業に勤しんだとも。
堀跡。
2つの祠。義貞様と呼ばれています。
江田氏子孫が義貞と行義を合祀し氏神としたものです。明治期に新田氏子孫が太田金山山頂の新田神社を建立し氏神様を本格的に祀りました。
11.世良田東照宮
御黒門。創建時に建てられた世良田東照宮の門です。
平時は「あかずの門」で庶民は門前での参拝しかできませんでしたが、正月と祭典日だけは開かれ拝殿下の階段まで参拝が許されたそうです。
真言院井戸。
長楽寺別院にあった井戸です。ここでは灌頂(かんじょう)が行われました。
※灌頂は菩薩が悟りを開いた際、諸仏がその者の頭上に智水を灌ぐ儀式のことです。
法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡。 (ほっしょうぜんじげっせんしんかいとうしょならびにふこうあんあと)
長楽寺5世・法照禅師の骨壺と6個の骨蔵器(弟子の骨)が埋まっていました。これは普同塔(共同埋葬)といわれる禅宗特有の埋葬方法で文献の中だけに存在した普同塔を実証した数少ない貴重な遺跡だそうです。
鉄燈籠竿陽刻銘。重要文化財です。
御供水井戸。
東照宮創建時に江戸幕府の命で造られた井戸。現在でも地下水脈と繋がっていて水が汲めます。
世良田東照宮拝殿。
世良田東照宮の唐門。
世良田東照宮本殿。
江戸幕府を開いた徳川氏の先祖がこの地の世良田氏だったということで三代将軍・徳川家光が天海僧正を通して作られた神社が世良田東照宮です。ちなみに徳川氏が世良田氏の末裔だったという証拠はないみたい。
終わりに
足利尊氏のかませ犬だったとしても……。田舎者とバカにされようが……。田んぼの中で犬死したとしても……。
群馬県民はみんな新田義貞が大好きなのです!
おしまい!
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