数百基の横穴墓群?!曾我兄弟の伝説残る十五郎穴へ

十五郎穴

茨城県指定史跡・十五郎穴。

十五郎穴は指渋、館出などの幾つかの地区からなる横穴墓群で古墳時代末から奈良時代に造られたと云う。

横穴は数百基確認されており、総数は300基を超えるのではないかと考えられている。

発掘調査で人骨、須恵器、刀、勾玉、切子玉などの副葬品が出土された。

十五郎穴

何か十五郎穴に纏わる興味深い話が残っていないかと昭和初期の資料を漁っていたところ当時の様子を表す書物を見つけた。

中根の十五郎穴と呼ばれて居るもの、恰もユダヤの墳墓を偲ばするに足る横穴の古墳が、今は乞食の安住の宅と化して居る

1928年(昭和3)発行 湊町発達史 近代篇 湊町の起源

長い間、老夫婦とその娘が洞穴に住み着いていた。

娘は大人になると所帯を持ち洞穴の前に小屋を建て、傘直しや帽子の染上げなどをして細々と暮らしていた。

若夫婦には6歳の娘と生まれたばかりの男児がいたのだが『自分たちのような生活はさせたくないから娘をどうにかして学校に通わせたい』と考えるように至った。しかし子供は戸籍を持っていなかったため入学は厳しいと嘆き途方に暮れていた。

その訴えを聞いた方面委員の方が哀れに思い救いの手を差し伸べる。ところが直後に父親が罪を犯し捕縛されてしまう。そして詐欺窃盗の前科三犯の男だと分かってしまった。妻も何かしらの手助けをしていたのかもしれない。

担当した方面委員の著者は、

自分達が世の中へ殘して行く罪を、その子によつて償つて貰ひたかつたのであらう。併し今はその望みも空しく○○○は四度び獄舎の門をくゞり行く身となつたのである。殘されたる二人の子は如何に生きることであらう。

1935年(昭和10)発行 方面委員の手牒 五 乞食より公民へ

と〆ている。

いちのまる
いちのまる

昭和初期の話です。最終的にどうなったかはわかりませんが、なんとも物悲しく後味の悪い話です。

 

十五郎穴の由来

十五郎穴

十五郎穴の由来はこの地に隠れ住んでいたと伝わる十郎・五郎という人物から。

この二人は日本三大仇討に数えられる曾我兄弟の仇討ちの主人公である曽我祐成と時致兄弟を指す。

曾我兄弟の仇討ちについては↓の記事で紹介しているので、興味のある方は御覧いただきたい。

十五郎穴の由来についてもう少し調べてみると『九号墳の玄室に五郎の二字が彫刻されている。これが関係している可能性は?』といった趣旨が記載されている書物を見つけた。

『では、十郎はどうなるのか?』という疑問に対し、当地に関係する地名や人名を挙げて説明を試みているが、結局のところは明らかではないと結論付けている。

また他の書籍では『九号墳の五郎の名前が墳墓造成時に彫られたのかすら分からない。曾我兄弟の伝説が先で後世に彫られた可能性もあり得る(要約)』と紹介されている。

伝説としては面白いけれど、よく分からないから本気にするなといったところだろうか。

 

終わりに

十五郎穴

十五郎穴は心霊スポットとして知られているようだ。

単純に古墳から連想したのだろうか?それとも曾我兄弟の伝説を受けてだろうか?

前者は『日本全国には16万基の古墳があると云われているのに何故ここに限って?(確かに心霊スポットの噂がある古墳は他にもあるけれども)』と首を傾げたくなるし、後者は『ただの伝説』であり仮に十郎と五郎の居住が事実だったとしても心霊との繋がりは全く見えてこない。

まあ、私には幽霊が見えない訳であるから、見える人に『そこにいる!』と言われてしまえば俯いて苦笑いするしかないのだが。

コメント

  1. 剣刀太子王 より:

    古墳関連の心霊スポットでは、群馬県藤岡市の七輿山古墳なんぞがありますね。
    麓に「首無し地蔵の群」と言われる大量の首が破壊された羅漢像(地蔵ではない)の集団があって、古墳自体の悲劇伝説(羊太夫の妻子七人の自害伝承)と合わせて曰く付きと化していますが、調べてみると「明治時代の廃仏毀釈」あるいは「江戸時代の付近のお寺と周辺住民間における紛争」らしいですね。
    恐ろしいのは人間ばかりなり、ということで……。

    • いちのまる より:

      剣刀太子王さん

      こんにちは。
      藤岡市の七輿山古墳ですか。初めて知りました。
      しっかりとした歴史的な根拠がありそうで興味深いです。

      群馬に帰省した際に行ってみようかしら。

タイトルとURLをコピーしました