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新田義貞ゆかりの新田荘遺跡11選!荘園と武士の誕生からたどる歴史旅【群馬】

「歴史に名高い新田義貞」は、南北朝時代[1336年(建武3)~1392年(明徳3)]に活躍した群馬県出身の武将です。

彼は末期を迎えた鎌倉幕府を攻め滅ぼすという偉業を成し遂げました。

幕府滅亡後、新田義貞は後醍醐天皇のために尽くすのですが、朝廷では「この田舎武将が!」と天皇やその取り巻きに冷遇されてしまいます。

そして、最後はライバルの足利尊氏に敗北し、尊氏が室町幕府を開いたことで、義貞はやや不遇なポジションとして語られることも少なくありません。

現在の評価は決して高くなく、愚将あるいは凡将などと散々いわれることもあります。

しかし、群馬県民にとって新田義貞は群馬随一の英雄であり、深く崇められる存在です。私も例外ではなく、彼を馬鹿にされるとなんだかモヤッとしてしまいます。

そんなわけで、今回は新田義貞にゆかりのある新田荘を散策してきました。
それでは参りましょう!

 

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新田荘遺跡について

新田義貞

新田荘は、新田氏が群馬県太田市一帯を開拓した荘園のことを指します。そして新田氏遺構群のうち11ヶ所が国の史跡に指定されています。それではまず、新田氏および新田義貞を知るために、荘園と武士の誕生について見ていきましょう!

新田義貞に関する歴史を長々と述べた後に新田荘遺跡群(11ヶ所)を紹介いたしますので、長文を読むのが面倒くさい方は飛ばしてください!下のリンクをクリックすると該当の史跡にジャンプします。

 

荘園の歴史について

荘園の誕生は、飛鳥時代の646年(大化2)の大化の改新まで遡ると分かりやすいです。この改新で日本の国土と人民は天皇の所有物と決められ、民衆に農地を貸し出して税を徴収しました。それから朝廷は「6歳以上の民に農地を与え、死んだら国へ返還する」という班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を定めます。

しかし「一代で返還されてしまう」「徴兵で農作業ができない」「税の負担が重い」といった理由から、農地を放棄して逃亡する人が続出しました。奈良時代[710年(和銅3)~794年(延暦13)]に入り、税収を確保できない朝廷は「三世代まで農地所有を認めてやろう。そうすればやる気が出るはずだ」と考えました。これが723年(養老7)の三世一身法(さんぜいっしんのほう)の施行です。

三世一身法で改善されることを願った朝廷ですが、これもうまくいきませんでした。理由は「期限付きだと農民がやる気を起こさずサボってしまう」というものでした。そこで朝廷は「期限はもう設けません。どうか働いてください……」と願いを込め、743年(天平15)に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発布します。

この法律に目を付けたのは農民ではなく、貴族や寺社といった裕福な層でした。彼らは期限がなくなったことで半永久的に利益を得られると理解し、働き手を雇って新地を開拓して資産を増やします。朝廷としても税金がコンスタントに入ってくるため結果オーライとなりました。この新地こそが荘園の始まりです。

 

荘園と武士の関係

さて次は、荘園と武士の関係を見てみましょう。

裕福層たちは働き手を雇って荘園をどんどん拡大していきました。すると、彼らの中でこんな欲求が生まれます。

「領地が広がるのは嬉しいけれど、税金が高いな。どうにか節税できないかな?あっ、確か摂関家の藤原氏の荘園は免税されているはずだ。これは使える!」

ということで、金持ちたちは藤原氏に名義を貸してほしいと頼み込み、税金対策を狙いました。これが功を奏し、瞬く間に流行していきます。金持ちたちは藤原氏に名義を借りるために金を払いますが、税金を払うよりは安上がりでした。しかも藤原氏の領地となれば、国司もうかつに手出しができません。

もともと摂関家の藤原氏は絶大な権力を持っていました。それに加え、貴族や寺社などの金持ちたちとの結びつきにより、朝廷を脅かすほどの力をつけてしまいます。絶大な権力を持った藤原氏は朝廷とほぼ同格になり、各国に支配者を送るまでになりました。

しかし、彼らが派遣した国司(一国の支配者)は民衆に重税を課したり、横暴を繰り返したりしました。そして彼らの理不尽な振る舞いから身を守るため、農民たちは武装するようになります。これが武士の始まりです。

そして時代が進むにつれて武士は組織化していきました。初めは自衛のために結成された組織でしたが、いつの頃からか彼らも国司と同様に略奪を行うようになっていきます。

組織化した武士たちは統率力を求め、自分たちの「棟梁」を探し始めました。ここで彼らが目を付けたのは国司です。国司は基本的に皇族から臣籍降下した人物が派遣されていました。血筋は良かったものの、生まれたタイミングが悪く皇族でいられなかった人たちです。京では偉くなれなかったけれど、地方に行けばトップになれるわけです。

その旨味を知ったいくつかの国司は、任期満了後も帰京せず、武士の棟梁として地方に居座り始めます。ちなみに源平合戦で有名な平氏や源氏の始まりは、こうして地方で武士たちに担ぎ上げられた国司たちです。

武士組織が拡大していくと、皮肉にも朝廷や藤原氏の勢力は衰退していき、やがて武家政権が時代を席巻することになります。

 

新田義貞の家柄

さて次は今回の主人公、新田義貞についてです。まずは新田氏の起源である清和源氏の成り立ちを簡単に見てみましょう!

清和源氏は、平安時代前期を生きた清和天皇を祖としています。清和天皇の第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の息子である経基(つねもと)が臣籍降下して「源」を名乗りました。彼については過去の記事でも少し触れていますので、よろしければそちらもご覧ください。

そして源経基の子孫である源義重(よししげ)が上野国新田荘を本拠地にしたことから、新田氏が誕生しました。

かなりざっくりとした説明ですが、源氏の系図は非常に複雑です。しかし、有名な戦国大名の家系をたどっていくと、清和源氏につながることが多くてとても面白いです。

 

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新田義貞について

名家・清和源氏の血を引く新田義貞は、1300年頃(正安2年頃)に群馬県で生まれ、1338年(延元3/暦応1)に福井県で亡くなりました。歴史年表的には鎌倉時代後期から南北朝時代を生きた人物ということになります。

新田義貞が家督を継いだ頃の新田宗本家はボロボロで非常に厳しい状況だったようですが、義貞はどうにかこれを立て直します。没落寸前のお家を立て直すということは並大抵のことではないため、それなりの内政力や高い人望があったようです。

1331年(元弘1)、後醍醐天皇を中心とした打倒幕府の戦いである「元弘の乱」では、鎌倉幕府の警護を任されます。その後、河内国(現在の大阪府東部)で後醍醐天皇に呼応した楠木正成が挙兵すると、幕府の命を受けてこれを討伐しに向かいます。

この段階ではまだ鎌倉幕府側に従軍していたことが分かります。しかし突然何を思ったか、義貞は幕府に対して「病気になったので帰国します!」と無断で群馬に帰ってしまいます。どうやら、後醍醐天皇から極秘裏に討幕の密書が届いていたようです。

新田荘に戻った義貞は、天皇からの誘いを受けて今後について深く悩みます。そんな中、鎌倉幕府は楠木正成討伐のための軍資金を集めるべく、各地に徴税の使者を派遣しました。そして義貞は徴税の使者とトラブルになり、使者を斬り殺して世良田宿にその首を晒してしまいます。

これには幕府も大激怒!報復として義貞の所領の一部を没収しました。義貞は、幕府が新田討伐を計画していると聞き及ぶと、「やられる前にこちらから動いてやる」と決意し、生品神社にて挙兵します。※決起の場所には諸説あり、集まった兵は150騎ほどと伝わっています。なお、後醍醐天皇の「元弘の乱」は一度失敗に終わり、天皇は隠岐島(島根県の離島)へ流されてしまいました。

 

打倒鎌倉幕府!

隠岐島に流罪となった後醍醐天皇は、名和一族の助けを借りて島を脱出します。天皇が流された後も討幕運動は下火にならず、各地で反乱が起きていました。有名どころでは河内の楠木正成や播磨の赤松則村、さらに後醍醐天皇の皇子たちなどが挙げられます。

挙兵した義貞はまず上野守護所(安中市の板鼻付近と推測されます)を攻め落とし、そこで一度態勢を整えます。すると越後や信濃から、義貞挙兵の噂を聞きつけた新田一族が次々と加わり、最終的には7000騎ほどの軍勢に膨れ上がったと伝わっています。

 

足利尊氏について

新田義貞を語る際に絶対に欠かせない人物「足利尊氏」についても簡単に説明しておきます。

足利尊氏はご存じの通り、室町幕府の初代将軍です。生まれは栃木県といわれてきましたが、近年の研究では京都府生まれともされています。

義貞と同じ清和源氏の流れをくみ、栃木の足利荘を治める御家人でした。
※源義国の息子のうち、兄の源義重が新田氏の祖となり、弟の源義康が足利氏の祖となりました。

新田氏と足利氏は非常に仲が悪かったそうです!もし両者が協力関係にあれば、新田義貞はもっと歴史的な大英雄になっていたかもしれませんね。義貞が挙兵した当時、足利尊氏は幕府の命を受けて後醍醐天皇討伐のために西国へ上洛していました。そして息子の千寿王(のちの室町幕府2代将軍・足利義詮)とその母親は、この時人質として鎌倉幕府に送られていました。

そんな尊氏も後醍醐天皇からの密書を受け取っており、やがて幕府に反旗を翻して京都の六波羅探題を壊滅させます。※六波羅探題は、京都の治安維持や朝廷の監視、裁判・警察機能を担っていた鎌倉幕府の機関です。

 

鎌倉幕府滅亡

さて新田義貞の話に戻りましょう。

準備を整えた義貞が利根川を渡って鎌倉へ向かう途中、足利尊氏の息子である「千寿王」と出会い、合流を果たします。千寿王は鎌倉幕府の人質から脱走してきたため、当時はまだ200騎ほどの小規模な兵数だったといわれています。

しかし、当時すでに超有名人だった足利尊氏の息子が加わったことで、各地から続々と兵が集まり、軍勢はおよそ20万騎にまで膨れ上がりました。

幕府軍との最初の戦いは「小手指原の戦い(埼玉県所沢市)」で、結果は義貞軍の勝利に終わります。その後、「久米川の戦い(東京都東村山)」での小競り合いを経て、幕府軍を分倍河原まで撤退させました。次の舞台は「分倍河原の戦い(東京都府中市)」です。

劣勢に立たされた幕府軍は鎌倉から10万の援軍を得て、北条泰家を大将に据えて最後の要害である多摩川沿岸で新田軍を迎え撃ちます。

分倍河原の戦いの初日は、援軍で士気が高まる幕府軍に新田軍が圧倒されて敗退・撤退となりました。しかしその晩、相模国(現在の神奈川県)の三浦義勝が新田軍の援軍として参戦します。緒戦の勝利に油断していた幕府軍に夜襲を仕掛け、見事に勝利を収めました。

地元地理に詳しい国人衆を敵に回してしまった幕府軍に、もはや打つ手はありませんでした。しかもその頃、京都の六波羅探題が陥落したという報告が入り、幕府軍の士気は完全にガタ落ちしてしまいます。

分倍河原の戦いで勝利した新田軍は多摩川を越え、「関戸の戦い(東京都多摩市)」で北条泰家を蹴散らして鎌倉へ接近します。鎌倉を総攻撃する際、義貞は「化粧坂切通」「極楽寺坂切通」「巨福呂坂切通」と部隊を3つに分けました。ここを突破されたら終わりである幕府軍は、これらの切通しを死守します。

義貞本人は「化粧坂切通」を攻めていましたが、しばらくして「極楽寺坂切通」の南にある稲村ヶ崎に目を付けます。ここは海岸沿いで道が狭く、大軍が通れない上に海から幕府の艦隊に弓矢で狙撃されるという非常に厳しい場所でしたが、ここで奇跡が起きます。

これが有名な「稲村ヶ崎の伝説」です。

稲村ヶ崎で攻めあぐねた義貞は、海に向かって神仏に祈りを捧げ、太刀を海に投げ入れました。するとその瞬間、奇跡的に潮が大きく引き、幕府軍の船は沖へと流され、進軍する道が大きく開けました。この奇跡に乗じて一気に鎌倉へとなだれ込みました

諸説はありますが、何かしらの偶然や奇跡が重なって難所を突破できたということです。突破後の「由比ヶ浜の戦い」で幕府軍を挟撃し、「東勝寺合戦」にて北条高時や重臣たちを追い詰めて自害させました。こうして新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼし、一躍歴史上の名士となりました。

 

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その後の新田義貞

新田義貞の最大の功績は、間違いなく鎌倉幕府を滅ぼしたことでしょう。

しかし、もし足利尊氏の息子が加わっていなかったらどうなっていたでしょうか?群馬県出身の私としては「鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞はすごい!」と無条件に誇りたいところですが、おそらく義貞の軍勢だけでは勝てなかったかもしれません。とはいえ、この歴史的快挙を成し遂げたことは揺るぎない事実です。

討幕を企てた張本人である後醍醐天皇は、自身がすべての権力をコントロールすべく、これまでの政治体制や幕府制度、摂関家を廃止して「建武の新政」を開始します。建武の新政は、武士と公家を一つにまとめ、天皇を中心とした強い中央集権国家を目指したものでした。

しかし、この新政は大失敗に終わります。もともと武士びいきではなかった後醍醐天皇が、武士と公家を平等に扱えるはずもなく、公家を優遇する政治に傾いたことで、武士たちの反感を思いきり買うことになってしまいました。

ちなみに新田義貞はこの新政で、天皇の親衛隊である武者所の長官に任命され、上野や越後の守護などを兼任しています。地方のさほど有力ではなかった武将がこれほどの要職に就けたのは大抜擢であり凄いことなのですが、ライバルの足利尊氏はさらに上の高い位に就いていました。

 

足利尊氏の裏切り

そして1335年(建武2)に「中先代の乱」が起きます。

この戦いは、信濃国(長野県)で密かに北条氏の復興を目指していた北条高時の息子・時行が兵を集め、一時的に足利氏の本拠地である鎌倉を奪還したものです。まもなく足利尊氏は西国から無断で出陣し、あっという間にこれを鎮圧しました。

いちのまる
いちのまる

北条時行は少年ジャンプで連載されていた『逃げ上手の若君』の主人公ですね。

人気作なので、ご存じの方も多いかと思います。

しかし尊氏は京へ戻らず、鎌倉に居座ってしまいます。後醍醐天皇が「すぐに帰京せよ!」と命じても完全に無視し、さらに勝手に恩賞の分配を始めました。なんと、義貞の許可なく新田氏の領地までも自分の配下に与えるという暴挙に出ます。

そして尊氏は、どさくさ紛れに天皇へ「義貞はあなたを騙しています。この機会に義貞を討伐しましょう!」と訴えました。

身に覚えのない濡れ衣を着せられそうになった義貞は、即座に「どう考えても悪いのは尊氏のほうではないか」と反論します。

当然ながら義貞の意見が通り、足利尊氏討伐の兵が挙げられることになりました。この時、義貞は実質的な総大将の立場にありましたが、自分より身分が高い公家などが軍内に混じっていたため、思うような戦いができませんでした。

一方の尊氏は「あぁ……私は人としてやってはいけないことをしてしまった」と深く後悔し、北条氏に鎌倉を奪還された際に幽閉されていた天皇の息子を殺害してしまったことや、後醍醐天皇に逆らったことを思い悩んですっかり引きこもってしまいました。

足利陣営の関係者たちは「(;゚д゚)えぇ……」と頭を抱えたことでしょう。

しかし、尊氏が引きこもろうとも討伐軍には関係ありません。1336年(建武3/延元1)の「矢作川の戦い(愛知県岡崎市)」で新田義貞と足利直義(尊氏の弟)が激突し、この戦いは新田軍の勝利に終わりました。続く「鷺坂の戦い」や「手越河原の戦い」でも新田軍が連勝を重ね、足利軍は鎌倉まで撤退しました。

伊豆国府(静岡県三島市)を占領した義貞は、ここで束の間の休息を取ります。破竹の勢いで進軍する新田軍の姿を見た引きこもりの尊氏は、ついにこう立ち上がります。

尊氏「直義よ、お前たちが討たれたら困る。私も戦うぞ!」

足利陣営の関係者「(;゚д゚)えぇ……(また勝手な……)」

 

新田兄弟vs足利兄弟

やる気を取り戻した足利尊氏は、箱根峠と足柄峠の守りを固めます。一方の新田義貞は、伊豆国府で軍を二手に分けて進軍しました。

箱根峠には新田義貞対足利直義、足柄峠には脇屋義助対足利尊氏という布陣です。脇屋義助は義貞の弟であり、まさに兄弟対決となりました。

箱根峠では新田軍が優勢でしたが、足柄峠では足利軍が優勢となりました。しかし、脇屋義助が敗退したことで退路を断たれると危惧した義貞は、箱根口で大勝していたにもかかわらず退却を選択します。この判断が裏目に出て、軍内で裏切りが相次ぎ、新田軍はあっけなく総崩れとなってしまいました。

ここから尊氏の猛追撃が始まります。なんと新田軍を執拗に追いかけ回し、そのまま京まで進軍して占拠してしまいました。尊氏の底知れぬ恐ろしさが表れた出来事です。

 

新田義貞と楠木正成

しばらく京を巡る戦いが続きましたが、北畠顕家や楠木正成の活躍により、最終的に足利尊氏は敗走して九州へ落ち延びました。再び尊氏討伐軍が編成され、まずは尊氏側の播磨の赤松氏を攻めることになります。しかしこの時のエピソードが、義貞の評価を著しく下げる原因となってしまいました。

なんと義貞、色恋沙汰に夢中になって討伐軍への合流が遅れてしまったのです。(※病気説もあり、個人的にはぜひ病気であってほしいと願いたいところです)

この遅参だけがすべての原因ではありませんが、結果として尊氏に反撃の猶予を与えてしまいました。尊氏に追われて兵庫まで退却した義貞は、楠木正成と合流します。この時、二人は酒を酌み交わし、互いの胸の内を語り合ったと伝わっています。もともと楠木正成は義貞に対してあまり良い感情を持っていなかったともいわれており、二人で激動の世の愚痴をこぼし合ったのかもしれません。

神戸市の湊川で行われた「湊川の戦い」で新田・楠木軍と足利軍が激突しますが、多勢に無勢で新田・楠木軍は敗北を喫します。この戦いで楠木正成は自害し、義貞は敗走しました。後世の素人目に見ても「なぜこの布陣にしたのか」と疑問が残る采配でしたが、足利軍に完全に包囲されての敗北となりました。

 

室町幕府と南北朝時代の始まり

その後、尊氏は再び京都を占拠し、後醍醐天皇は比叡山へ避難します。義貞は京都奪還を狙いますが、状況はうまくいきません。そんな中、尊氏は後醍醐天皇と和解の道を選びます。尊氏は三種の神器を受け取り、光明天皇を擁立(北朝)して「建武式目」を制定しました。

これが室町幕府の始まりです。

一方の後醍醐天皇は「あの時渡した三種の神器は偽物でした!ばかめ!」と言い放ち、京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、独自の朝廷(南朝)を開きました。

これが歴史に名高い「南北朝時代」の幕開けです。

 

義貞北陸へ

新田義貞は北陸地方へ向かいます。なぜ北陸を目指したのかについては、明確には分かっていません。尊氏と後醍醐天皇が秘密裏に和解したことに対し、裏切られたと激怒した義貞が「恒良親王と尊良親王をお連れして北国へ向かわせてほしい」と提言したともいわれているようです。

「あなた(天皇)と尊氏から距離を置かせてください。力を蓄えていつか必ず反撃します。そのためにこの二人の皇親が手元にいれば都合が良いのです」といった思惑があったのかもしれません。

 

そして義貞は金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入城しますが、義貞のことが許せない足利尊氏は容赦なく軍を差し向けてきます。どこまでも執念深く追ってくるその姿勢は、もはや執着の域です。新田軍は健闘しますが、次第に兵糧が尽きて敗走を余儀なくされました。尊良親王は自害し、恒良親王は捕虜となり、義貞は杣山城へ逃れます。親王たちが義貞の元を離れたことで、足利軍の攻撃は一時的に下火になりました。

 

義貞死す!

1337年(建武4/延元2)に奥州(東北地方)から北畠顕家が上洛してくると、後醍醐天皇から「今こそ好機!南朝の諸君、立ち上がれ!」と命令が下ります。しかし南朝側の連携はうまくいかず、善戦むなしく1338年(建武5/延元3)に北畠顕家は戦死してしまいます。

そして新田義貞も、1338年に越前国藤島にて、足利勢との小競り合いの最中に戦死してしまいました。この最期は「犬死に」とまで揶揄されることがあります。田んぼの中で馬から落ち、身動きが取れなくなったところを敵の矢の雨に遭って命を落としたと伝わります。あまりにも突然の、そして虚しい死でした。

こうして、新田義貞の激動の生涯は幕を閉じました。

義貞は世間から散々ボロクソに言われることもありますが、決して凡将などではありません。むしろ、現代でさえ日本の秘境などと面白おかしくイジられる群馬という土地から、一族を率いて天下動乱の中心へと駆け上がった実績は凄まじいものだと私は思います。

その後、南北朝時代は1392年(明徳3)に両朝が合一されるまで約60年間続きました。時の将軍は足利義満でした。そしてその約80年後には謎の大乱「応仁の乱」が勃発し、本格的な戦国時代へと突入していくことになります。

 

新田荘遺跡11ヶ所の紹介

かなりの長文にお付き合いいただきありがとうございます!続いては、国の史跡に指定されている「新田荘遺跡11ヶ所」をご紹介します。

現地で撮影した写真と簡単な説明をまとめましたので、歴史散策に興味がある方はぜひ最後までご覧ください!

 

1.矢太神水源

新田義貞

この辺りは大間々扇状地の扇端部にあたり、湧水地が非常に多い地域です。その中で最も豊富な水量を誇る矢太神水源は、新田荘の開発において極めて重要な役割を果たしました。

ここには「ニホンカワモズク」という大変珍しい紅藻類が生息しています。かつて海だったこの場所に残された海藻が、長い年月をかけて淡水に適応したのではないかといわれています。

住所:太田市新田大根町244

 

2.重殿水源

新田義貞

重殿水源も矢太神水源同様に新田荘の開発や領地運営に活用されたと伝えられています。

また鎌倉時代には、重殿水源から引かれた用水堀を巡って激しい水争いが起き、幕府が裁定を下した「関東裁許状」という重要な史料が残されているため、歴史的価値の高い史跡として指定されています。

住所:太田市新田市野井町1472-1

 

3.円福寺境内(御室山 金剛院)

新田義貞

真言宗の寺院である円福寺は、新田本宗家の4代目である新田政義によって創建されました。

 

新田義貞

山門の立派な扁額の文字は、江戸時代後期に別所村を知行していた幕臣・筒井政憲が書いたものです。筒井政憲はロシアとの外交交渉で活躍し、日露和親条約の締結に尽力したことで知られる優秀な行政官でした。

 

新田義貞

境内には新田氏累代の墓があり、五輪塔の地輪部分には「沙弥道義 七十二逝去」という銘文が刻まれています。

これは新田義貞の祖父・新田基氏の法名ではないかといわれており、当時としては非常に長生きだったことが伺えます。

住所:太田市別所町594-1

 

4.十二所神社境内

新田義貞

社殿の内部を直接拝見することはできませんでしたが、十二所神社の本殿には16体の神像が安置されており、そのうちのいくつかの神像には正元元年(1259)の銘が残されているそうです。

住所:太田市別所町599

 

5.総持寺境内(威徳山 陀羅尼院)

新田義貞

総持寺は太田市の世良田という地区にある真言宗のお寺です。

この世良田はかつて新田荘の経済的・文化的中心地であり、昭和初期まで周辺に土塁跡が存在していたことから、「新田氏本家の館がこの場所にあったのではないか」と推定されています。

 

新田義貞

また境内には、1731年(享保16)に鋳造された総持寺の梵鐘があります。

この鐘は、突起である「乳」の間に通常あるべき模様がない「いぼなしの鐘」と呼ばれている珍しいものです。

住所:太田市世良田町3201-6

 

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6.長楽寺(世良田山 真言院)

新田義貞

長楽寺は天台宗のお寺で、開基は世良田氏の祖である世良田義季です。もともとは臨済宗のお寺でした。

江戸幕府を開いた徳川家康が「我が家系は世良田(得川)の末裔である」と称したことは歴史ファンにはお馴染みの話で、家康自身も一時期は世良田を名乗っていました。

 

新田義貞

境内にある蓮池は「心」の字をかたどって造られたことから「心字池」と呼ばれています。

 

新田義貞

天皇の使者や幕府の要人が参拝する時だけ開かれたという「勅使門(あかずの門・赤門)」。

 

新田義貞

寺の行事の際に太鼓を掛けた「太鼓門」。

 

新田義貞

過去・現在・未来を表す三世仏を安置する「三仏堂」。

 

新田義貞

新田義貞

開山である栄朝大禅師を祀る「開山堂」など、見どころが盛りだくさんです。

住所:太田市世良田町3119-6

 

7.明王院境内

新田義貞

呑嶺山明王院安養寺は、1061年(康平4)に後冷泉天皇の勅令により源頼義が開基となり、奈良の興福寺から頼空上人を招いて開山されたと伝わる真言宗の古刹です。

新田氏の始祖である源義重が中興の祖となり、8代目の新田義貞が後醍醐天皇の勅命を受けて大寺院として再建しました。

境内にある不動堂には二体の不動明王像が安置されており、それぞれに興味深い伝説が残されています。

  • 一つは「新田触不動尊」と呼ばれ、義貞が鎌倉攻めを行う際、不動明王が山伏に変身して新潟方面の新田一族に触れてまわり、援軍を集めたという伝説
  • もう一つは背後の火炎がない珍しい不動明王像で、戦の指揮を執る新田義貞の姿を模して彫っていたところ、一夜にして不動明王に変化したという伝説

 

新田義貞

新田義貞

また、境内には江戸時代中期に建てられた「千体不動尊供養塔」もあり、この地域での不動信仰の深さを物語っています。

住所:太田市安養寺町200-1

 

8.生品神社

新田義貞

生品神社は、新田義貞が鎌倉幕府打倒に向けて挙兵した伝説の地として知られています。神社の歴史は非常に古く、平安時代に編纂された「上野国神名帳」にその名が記されています。

 

新田義貞

義貞が陣中で使用したとされる「新田義貞床机塚」。

床机は肘掛のない簡単な椅子のこと。陣中や儀式などで使われたものです。

 

新田義貞

挙兵の際に旗を掲げた「新田義貞旗揚塚」。

 

新田義貞

義貞が実際に旗をかけて戦勝祈願をしたと伝わる御神木の「神代木」。

住所:太田市新田市野井町645

 

9.反町館跡

新田義貞

反町館は鎌倉時代から南北朝時代にかけて築城され、1590年(天正18)の豊臣秀吉による小田原征伐の後に廃城となったとされています。

現在は「反町薬師」として親しまれる照明寺が建てられています。

新田義貞がここに居城を構えていたと伝わります。

 

新田義貞

新田義貞

新田義貞

境内やその周辺には、当時の面影を色濃く残す土塁や大規模な空堀が現在も見事に現存しており、中世城郭の構造を間近に見学することができます。

住所:太田市新田反町町896-1

 

10.江田館跡

新田義貞

江田館跡は、新田義貞の遠縁にあたる江田行義が居城にしていたとされる館です。

鎌倉の北条氏討伐の際には義貞と共に戦って大いに活躍しました。討幕後は西国で足利尊氏と戦いましたが、その後の足取りには謎が多く、一説には広島あたりへ落ち延びてひっそりと農業に勤しんだともいわれています。

 

新田義貞

新田義貞

新田義貞

現在も周囲には深い堀跡が残っており、敷地内には「義貞様」と呼ばれる2つの祠が祀られています。これは江田氏の子孫が義貞と行義を合祀して氏神としたもので、明治期には太田金山山頂の新田神社へと受け継がれていきました。

住所:太田市新田上江田町924-1

 

11.世良田東照宮

世良田東照宮は、江戸幕府を開いた徳川氏の先祖がこの地の世良田氏であったという伝承に基づき、3代将軍・徳川家光の命により天海僧正が総奉行となって創建した神社です。ちなみに、徳川氏が世良田氏の末裔であるという明確な歴史的証拠はないとされていますが、徳川家のルーツに関わる非常に格式高い場所です。

 

新田義貞

創建当時の姿をとどめる「御黒門」。

平時は「あかずの門」で庶民は門前での参拝しかできませんでしたが、正月と祭典日だけは開かれ拝殿下の階段まで参拝が許されたそうです。

 

新田義貞

長楽寺別院にあった「真言院井戸」。

ここでは灌頂(かんじょう)が行われました。
※灌頂は菩薩が悟りを開いた際、諸仏がその者の頭上に智水を灌ぐ儀式のことです。

 

新田義貞

「法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡(ほっしょうぜんじげっせんしんかいとうしょならびにふこうあんあと)」。

長楽寺5世・法照禅師の骨壺と6個の骨蔵器(弟子の骨)が埋まっていました。これは普同塔(共同埋葬)といわれる禅宗特有の埋葬方法で文献の中だけに存在した普同塔を実証した数少ない貴重な遺跡とのこと。

 

新田義貞

重要文化財に指定されている「鉄燈籠竿陽刻銘」。

 

新田義貞

「御供水井戸」。

東照宮の創建時に幕府の命で造られた井戸です。現在でも地下水脈と繋がっていて水が汲めます。

 

新田義貞

世良田東照宮の「拝殿」。

 

新田義貞

「唐門」。

 

新田義貞

「本殿」。

住所:太田市世良田町3119-1

 

終わりに

足利尊氏のかませ犬だったと言われようが……。

田舎者とバカにされようが……。

田んぼの中で無念の死を遂げたと言われようが……。

群馬県民は新田義貞が大好きなのです!

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