平将門の首塚は恐らく東京都で……。いや、日本で一番著名な怪奇スポットと言っても過言ではないか。
日本三大怨霊の一つとして知られ、首塚を退かして建物を建てようとすると祟りが起き、関係者が不幸に見舞われるなんて話が知られている。
将門の首塚はテレビやブログなどで紹介され尽くされている感があるので『今更記事にしてもなぁ。』という思いが過ったが、私自身の歴史の復習を兼ねて紹介することにした。
それでは首塚の写真と共に平将門の人物像をご覧あれ!
2021年(令和3)4月に改修工事が行われて様子が大分変ってしまいました。
当記事では、昼の写真は改修前、夜の写真は改修後の首塚で分けています。
見比べてみてね!
平将門の首塚の場所
東京メトロ大手町駅のC7出口を出て目の前の信号を横断して左折。
少し歩くと右側に平将門の首塚がある。
平将門の生涯について
平将門は平安時代中期に活躍した関東地方の豪族である。
祖父は臣籍降下で平氏を名乗った高望王(たかもちおう)という人物。
高望王の曽祖父が桓武天皇なので、皇族の血を受け継ぐ由緒正しき血筋であった。
若い頃、平将門は平安京の藤原忠平の下で働いていたけれど、望みの職に就けず関東に帰っている。
その頃に父・平良将が死去し、それが起因で一族間の血なまぐさい領地争いが始まった。
父の領地であった下総国(現千葉、東京、埼玉、茨城の一部)の多くが叔父・平国香や良兼に奪われたことで戦いの火蓋が切られる。
平将門の乱について
平将門の同盟者に常総国(現茨城県)の一部を支配する平真樹という人物がいた。
真樹は隣接地を治める源護と領地争いを繰り広げていたが、やがて敗色濃厚に。
将門は二人の戦いを止めるため調停に向かったが、道中に源護の息子『扶』『隆』『繁』の軍勢を発見。
どう見ても将門軍を打ちのめすための待ち伏せであった。
相手が戦う姿勢を見せているならば見逃すわけにはいかないと、三兄弟を完膚なきまで蹴散し、彼らを殺害。
そのついでに源護の本拠地を焼き払った。(源護は不在もしくは逃走で無事)
さらに将門は国香(領地奪った叔父)の館を放火し国香を殺害している。
以上が緒戦の概要である。
打倒将門の連合軍結成される
3人の息子を討たれた源護は娘の嫁ぎ先である将門の叔父、平良正に『お前んとこの将門どうにかしろ』と訴える。
これを受けた良正は意気揚々と将門の本拠地に向けて進軍するのだけれども、将門は難なくこれを退け撃破。
すると平良正は兄の平良兼に援軍を求め、良兼は京で立身出世を望んでいた平国香の息子・貞盛を強引に関東に召喚し、打倒将門を掲げる良兼・良正・貞盛連合軍を結成する。
連合軍は下野国(現栃木県)に集結してから将門の本拠地を攻め入る。
一方将門は少数先鋭部隊で連合軍を掻き乱した。
ゲリラ戦法に乱された連合軍は態勢を整えるために一時退却したのだが。将門は隙を逃さず温存していた本隊を連合軍に当てぶちのめす。
その後、連合軍はボロボロになりながらも下野国の国府に逃げ込んだ。
将門軍は国府を包囲し、わざと良兼たちを逃している。
『俺は悪くない。あいつらが勝手に襲ってきただけだ!』
こう言って国府に認めさせ本拠地へ帰参するという策略家の一面を見せる将門であった。
このままでは埒が明かないと源護は朝廷に将門と平真樹を告訴している。
朝廷から召喚命令が出た将門はすぐに京へ赴く。
しばらく捕らわれの身になったが、すぐに恩赦がおりて関東へ帰参。
復讐に身も魂も委ねた源護は病死したと云う。
しかし、戦いは終わっていなかった。
叔父の平良兼は懲りずに攻めて来る。
良兼は卑劣にも将門の祖父・高望王と父・良将の像を陣頭に掲げて突撃敢行。
なんとこの作戦が成功し、将門は敗北してしまう。
叔父の暴挙に流石の将門もドン引きしたことであろう。
負けを取り戻すため将門は軍を起こし、良兼に攻撃を仕掛けるが再び敗北。
この時は酷いやられようで本拠地は滅茶苦茶に荒らされ妻子も攫われてしまった。
ちなみに将門の妻は良兼の娘。恐らくは殺されていないと思う。
劣勢に立たされた将門は以前の主人である京の藤原忠平に助けを求めている。
すると朝廷から『平良兼を捕縛せよ!』と命が下り将門に勝機が。
これ大義名分とした将門は良兼を破り、良兼の勢力は衰退、本人も病没した。
将門は残った敵を殲滅するため平貞盛を追い掛け回すが、貞盛は京に逃げ込み将門を訴えている。
この際、将門は朝廷の召喚要請に対し、だんまりを決め込んでいる。
将門、新皇になる
平氏同士の戦いは一時中断。
現在の埼玉、東京、神奈川の一部は武蔵国と呼ばれていた。
武蔵国に新しく赴任してきた興世王と源経基は土地の検査(検注)を行っているが、その検査で豪族の武蔵武芝と一悶着あり二人は武蔵武芝の領地に攻め込んでいる。
ここで再び将門登場。
仲立ちが好きなのか、またややこしい所に入り込む。
軍を引き連れた将門は調停のため、山に軍勢を構えていた興世王と源経基のもとへ。
興世王が山を下り武蔵武芝と話し合い和解し、調停成功したかに見えたが…。
何故か武蔵武芝の軍が山に籠っていた源経基の陣を包囲。
恐れた源経基は『興世王、武蔵武芝、平将門が謀反!』と逃走し調停に訴えを起こす。
ところが朝廷は『将門等は無実』の判決を下す。
反対に源経基は讒言したとして京で捕らわれている。
この辺りから将門の運命は狂っていきます。
次に藤原玄明という人物が登場する。
税を払わず自分の領地で好き勝手する藤原玄明に怒った武蔵国府は玄明捕縛命令を出した。
玄明は将門に助けを求め藤原玄明を庇い、引き渡せと要求する国府に対し知らん顔。
更には捕縛命令を撤回せよと国府を兵で囲む始末。
将門に勝てないと悟った国府は降伏し、将門一党は国府周辺でやりたい放題暴れ回った。
将門は関東全域を支配するまで暴れ続け、やがて自らを『新皇』と名乗り朝廷や天皇に対抗して国を創ってしまう。
平将門の最期
最期は本当にあっけない。
将門が朝敵になったタイミングで平貞盛は下野国の藤原秀郷らと結託し将門を攻め立てる。
とある合戦で将門は風向きを利用した矢の斉射で連合軍を退却まで持ち込ませた。
しかし自然の気まぐれで風向きが逆となった所に貞盛・秀郷軍は『好機到来!』と嵐のように矢を撃ち返し、なんと矢が将門の頭部に命中してしまう。
こうして将門軍は総崩れし将門は討ち取られた。
心霊スポットといわれる所以について
将門の首は大罪人として京で晒されている。
死んだのにもかかわらず将門の首は一向に腐らず笑ったり叫んだりして人々を恐れさせたと云う。
ある日突然、首が『身体を探し求め』関東方面へびゅーんと飛んでいったそうな。
関東までの道中に肉片を落としつつ飛んでいった。
将門の肉片は様々な伝説を各地に残している。
終着点が平将門の首塚。
この伝説が後世まで語り継がれ曰く付きの場所として知られるようになったという訳だ。
終わりに
首塚にあるカエルの石像は将門の首が帰ってきたことに因んで置かれている。
お祈りすると『無事にカエルことが出来る』というご利益があるとのこと。
首塚の改修工事によって石碑周りのカエルたちは何処かへ行ってしまったようです。
ざっくりではあるが将門の生涯について紹介した。
10世紀の事で大まかなことしか判明していないため、歴史小説家の恰好のネタとなる平将門。
興味深い小説が多く刊行されているので、是非色々と読んでみるとよい。
コメント
将門塚お参りし、写真何枚か撮影してきましたが、写真をとおしてわかったのですが、この将門塚、物凄い数の霊体が、取り囲んでいて、さらに、奥のお墓ですか、供養塔かわかりませんが、そこにも、凄まじい形相で参拝する人を、選別している霊が、何体も確認できます。将門塚にお参りするということは、物凄い数の霊体に、監視され、さらされていることを、自覚する必要があります。この地を、取り壊したりしたら、この凄い数の霊体が、浮遊しだすわけですから、大変な影響与えます。
1つ教えると、お墓の右下にあるものから、こちらを睨みつけている顔がはっきりと写真に写っています。
真摯な態度で、お参りしないと、この大霊団にとりかこまれ、やられてしまうでしょう。
しんぺい さま
コメントありがとうございます!
私は霊の存在を居ても居なくてもどちらでもよいという立場を取っております。
全く見えないですし、感じないです。でも完全否定するつもりもございません。
どんな霊が出るのか?ということには興味があります。
それが事件や事故、戦争などの出来事(歴史)に繋がることが多いので。
日本各地の心霊スポットに訪れていますが、今のところ問題なく生きています。
(霊がいるとして)霊から見たら私の訪問は真摯な態度に映っているのかもしれませんね。
また是非コメントお待ちしております!
東京に行った時に少しドキドキしながら
参拝させて頂きました。
そしたら不思議なくらいに、仕事運がアップ⤴️しました。
また、東京へ行ったら必ず参拝させて頂こうと思っています(^ ^)
みやりん さま
コメントありがとうございます!
平将門は朝廷に反旗を翻した賊かもしれませんが、
当時の関東を制圧するほどの能力の持ち主でした。
人望に溢れ仕事熱心な武将だったのでしょう。
マイナスなイメージで捉えるより、みやりんさんのように
前向きに捉えてお祈りしたほうが、将門、及び我々にとって善いことだと感じました。
(霊が存在するのなら)、将門公はきっと喜んでいるに違いありません。