この写真に写る廃墟は志免炭鉱の遺構で志免鉱業所竪坑櫓といいます。
ここだけ時代に取り残されたような…。
噂には聞いていましたが、実際見ているともの凄く違和感があります。ちょっと不気味な感じもあります。
そのせいでしょうか?ここは心霊スポットとして知られています。
志免鉱業所竪坑櫓の歴史を振り返ってみましょう!
志免鉱業所竪坑櫓の場所
九州自動車道・須恵ICのすぐ近くにあります。
・上りならICを下りて右折し県道91号を直進。西原の信号を左折。しばらく進むと左手にあります。
・下りはICを下りて左折、旅石宮ノ下の交差点を左折。あとはまっすぐ進むだけです。
志免町総合福祉施設『シーメイト』の駐車場が利用できるようです。私は別の駐車場を利用したのでどこからシーメイトに入るのかわかりません。
その他の交通手段としてはバスがあります。
西鉄バスの東公園代台2丁目が最寄りのバス停で、交通の便が良い乗り場は福岡空港前、あとはJR九州の須恵中央駅近くにある須恵役場前乗り場です。
志免鉱業所竪坑櫓の歴史
九州北部には多くの炭田があり、その中でも特に糟屋の炭田は良質でした。
大日本帝国海軍は1889年(明治22年)に志免鉱業所の前身、新原採炭所を設営。
採掘した石炭を軍艦などの燃料にあてました。
日本国の発展や戦争のために多くの燃料が必要でした。次第に上層部の石炭が枯渇してきたため下層部にある石炭層の掘削が必要になります。
竪坑櫓はそういう理由から1941年(昭和16年)に建設着工に入り1943年(昭和18年)に竣工されました。
櫓からケージを吊るして竪坑内を昇降させます。つまり人と石炭を運ぶエレベーターです。
志免鉱業所竪坑櫓の櫓の高さは47.6m、竪坑は深さ430mありました。
戦後は日本国有鉄道(国鉄)の所有となり蒸気機関車の燃料のために採掘されました。
しかし燃料が石炭から石油にシフトしていったため経営難に陥ります。国鉄は民間会社に払い下げしようとしますが、その結果激しい労働争議が起こってしまいます。(志免闘争)
志免闘争の混乱は収まらず1964年(昭和39年)、民営化になることなく閉坑します。
これだけ巨大な竪坑櫓を建設し維持できたのは、戦時から戦後に至るまで国営であり続けたためです。
2009年(平成21年)、国の重要文化財に指定されています。
本体は鉄筋コンクリートでできていますが、現在は老朽化が進み、建物としての安全性が心配されています。その修理は、国・県等の関係機関との連携はもとより、町民の皆さんをはじめ多くの皆さんの力を借りて取り組んでいく必要があります。
(中略)
今後は、文化財としての価値を損なわないよう継続的に保存に取り組むとともに、志免町に炭鉱のあった記憶を次世代に語り継いでゆきます。
とのことです。
心霊スポットと云われるわけ
何でですかね?
1938年(昭和13年)に海軍採炭所(海軍燃料廠採炭部)第七坑でガス爆発が起き50名の方々が亡くなっています。
炭鉱・鉱山系は事故が多いですからね。心霊スポットになりがちです。
真ん中右に赤いモヤがかかっていますね。なんか洋画ホラーのスクリームみたいに見えないこともないね。
光の具合でこう写ったと思いますけど、あなたはどう思いますか?
終わりに
以上が志免鉱業所竪坑櫓についてでした。
珍スポットでもあり心霊スポットでもあり、そして国の重要文化財でもある貴重な史跡です。
末永く聳え立っていただきたいと存じます。
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