茨城県ひたちなか市にある多良崎城跡。
多良崎城はかつて真崎浦と呼ばれた入り江(沼地)に突き出た半島状の台地上に位置する。1905年(明治38)の地図を確認すると縄張りの北側に正木浦と書かれた池がある。
現在、南側以外は田んぼに囲まれているが、むかしはこの田んぼも池或いは湿地帯だったのだろう。
1973年(昭和48)に行われた実測調査で本郭から常滑焼大甕の破片が大量に発見された。この遺物の特徴から多良崎城は鎌倉時代から南北朝時代の間に築かれたと考えられている。
多良崎城跡には以下の遺構が残存している。
本郭・二の郭・三の郭・屋形跡・虎口(大手口)・隅櫓跡・土塁・空堀・堀底道・烽火台・水の手・木戸跡などの遺構がほぼ完全な状態で残っていることが確認された。
ひたちなか市教育委員会 多良崎城跡より
写真のように真っ赤な看板で遺構の場所が示されていた。
築城者は常陸大掾氏の一族である吉田里幹(多良崎三郎)或いはその後裔だとされ、多良崎氏が南北朝時代の争乱で没落すると江戸氏の一族が変わって入城した。
吉田里幹は多良崎城から離れた奥山という場所に居館を構えたと考えられている。
このことから多良崎城は生活のための城ではなく有事の際の山城として使用されていた可能性が高い。
1590年(天正18)の豊臣秀吉による小田原征伐で江戸氏は日和見の態度を示した。早くから秀吉に恭順していた太田城の佐竹氏はこれ見よがしに江戸領に攻め込み水戸城(馬場城)を落した。
多良崎城は水戸城と佐竹氏の太田城の中間(少々東にズレてはいるが)に位置しているから、水戸城攻略の一環で攻め落とされ、そのまま破却されたのだと思われる。
以上が多良崎城の歴史である。
終わりに
足崎の農家の人たちの話によると、多良崎城跡にたき木を取りにはいり、馬をつなごうとすると、馬が何かにおびえて落ちつかず、しきりにはね廻る場所があるということである。
また、城内の地下に部屋のようなものがあるらしく、足ふみすると、うつろな音のするところがある、と語っている。
勝田市史編さん委員会著 勝田市史 中世編・近世編 Ⅲ多良崎城とその歴史より
1978年(昭和53)3月発行の勝田市史に多良崎城の曰くが記されている。
心霊サイトでは『多良崎城は茨城県のなかでもかなり恐怖度の高い心霊スポット』といったニュアンスで紹介されることが多いようだ。
なるほど、心霊スポットという言葉ができる以前からそういう噂があった場所だから多少の説得力はあるかもしれない。
小一時間城内を彷徨っていましたが、私には幽霊の気配がわかりませんでした。
夜に行けばまた違うのかしら?
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