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子育てのご利益があるパワースポット・呑龍様【群馬】

子育て呑龍

群馬県民に呑龍様の名前で親しまれている義重山新田寺大光院。

上毛かるたで『太田金山子育て呑龍』と詠われているとおり子育てのご利益にあやかりたい人々が訪れるパワースポットです。呑龍様と子育てのご利益にどのような由緒があるのか気になってみたので調べてみました。

それでは、呑龍様の歴史を振り返りましょう。

 

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子育て呑龍(大光院)へのアクセス

子育て呑龍

北関東自動車道・太田桐生ICを館林、太田市街地方面に下りて国道122号に入ります。

道なりに進み安良岡北の交差点を右折し国道407号線を進みます。

東本町の信号を右折、本町の交差点を右折し約5分進むと左手にあります。

 

呑龍様(大光院)の歴史

子育て呑龍

大光院は徳川家康が新田義重を追福するために建立しました。

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家康の祖父・松平清康は新田氏(清和源氏)が自家の先祖だと主張しました。新田氏の一族に得川姓(とくがわ)があり、家康は政治的な目的で徳川姓を名乗りました。

新田義重は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将。群馬の歴史を語るには外せない新田義貞の先祖です。

徳川家康が新田氏の末裔だったという証拠はなく疑わしい話ですが、群馬出身の私としては故郷が徳川氏と縁のある土地だと自慢したいので余計な詮索はやめておきます!

 

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呑龍上人について

子育て呑龍

大光院の初代住職には東京増上寺(浄土宗)の観智国師・慈昌の弟子である呑龍上人が迎えられました。呑龍上人は戦国時代から江戸時代初期に活躍した僧で生まれは現在の埼玉県です。

幼い頃から地元の寺で修業し、のちに増上寺へ修学。大善寺(八王子)の住職となり浄土宗檀林の基礎を作ったとされています。檀林とは仏教の学問所のこと。読み方は『だんりん』。

 

子育て呑龍

呑龍上人が大光院に着任したのは1613年(慶長18)。58歳のときでした。

その当時は乱世が明けて間もなく地方の秩序は乱れていました。特に男女の不義が激しく、望まれず生まれてきた赤子を殺したり、年端もいかない子供を山に捨てたりする行為が平然と行われていたそうです。

そんな様子を見て呑龍上人は酷く心を痛ませ大人たちに理由を聞くと、彼らは口をそろえて『生活が苦しい。子は愛らしい。しかし生活のため仕方がない』といいました。

すると呑龍上人は彼らにこう告げます。

『あなたたちにも道理はあるのだな。では今後そのような子供が生まれてしまったのならば私に相談なさい。食べ物は幕府から頂戴している。田地、衣服は信者からの浄財がある。子供たちは私の弟子として7歳まで面倒を見よう。それくらい育てば自力でどうにか食べていくことができよう』

 

子育て呑龍

それから堕胎や子捨ての悪習はすっかりなくなり、生活に行き詰まった夫婦は呑龍上人に相談して子を預けるようになりました。

大光院で愛情を持って育てられた子供を見た夫婦たちは『なぜ、こんな愛らしい子たちを何も思わず殺せたのか……』と後悔をするとともに慈悲深い呑龍上人を仏と重ね合わせたのでした。

 

終わりに

子育て呑龍

以上が『子育て呑龍』の由来でした。このエピソードから安産、子育てに関するご利益が生まれたのです。

また子育てとは関係ありませんが、呑龍上人には鶴殺しを匿った逸話があります。

呑龍上人が大光院の住職になってから3年目。とある男が鶴を殺してしまいました。当時、鶴殺しは重罪に処されたそうです。男は追手から逃れて大光院に駆け込み呑龍上人に助けを求めました。

上人はその罪を憎みましたが、彼を憐れんで匿うことにします。追手は徳川家のご先祖が祀られる菩提寺に踏み込むことができず、上官に命令を仰ぎました。

上官は上人を厳しく問い詰め、男を捕えようとします。義侠心に富んだ上人は、住職の身分を捨て、おのれの生命も顧みず男を助ける決断を下します。

上人は男を連れて寺を抜け出し、赤城山や浅間山の麓に潜伏すること5年。この間、呑龍上人不在の大光院は風前の灯火。上人に徳化された民衆は心の頼りを失い思い悩みました。

事情を把握した将軍家は上人の罪を赦し、再び大光院に戻しました。鶴を殺した男も助かったといいます。

いちのまる
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これらの慈愛に満ちたエピソードがあって呑龍上人は語り継がれているのですね。

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