尼ぜ、我をばいづちへ具して行かんとするぞ
平家物語 先帝身投より
赤間神宮には壇ノ浦の戦いで身投げした安徳天皇が祀られている。
栄華を極めた平家が没落していく様を描いた平家物語で、安徳天皇の最後が記されている。
『先帝身投』のシーンで、大人の事情に巻き込まれ、8歳という若さで崩御された彼の姿を観ると、世の不条理に居た堪れない心持になる。
冒頭の引用文は入水直前の安徳天皇のセリフ。
『何処へ連れてくの?』みたいな感じ。
幼いながら聡明であった帝はこれから何が起こるのかを察していたのだろう。
さて、本題に入ろう。
今回は赤間神宮そのものではなく境内にある耳なし芳一木像と平家一門之墓についての話。
ちょっと怖いお話なので苦手な方はそっと閉じてください。
赤間神宮及び耳なし芳一の木像と平家一門之墓の場所
赤間神宮は国道9号線沿いに位置している。
最寄りのICは下関、JR山陽本線下関駅からバスも出ている。
耳なし芳一の木像と平家一門之墓は赤間神宮拝殿の左奥にあった。
平家一門之墓について
別名を七盛塚と云う。
ここに眠る平家の方々をざっくり紹介する。
前列(右から)
平重盛の四男。
平清盛の孫に当たる。
壇ノ浦の戦いで資盛、行盛と手を組んで入水。
享年22歳。
平重盛の三男。
平家物語の灌頂巻・六道之沙汰で清経の最後が語られている。
『源氏に都を落とされ、九州では緒方維義から追い出された。もはや明るい未来はない。』と入水。
享年21歳。
平重盛の次男。
壇ノ浦の戦いで有盛、行盛と入水。
享年25歳。
思ひとぢめ思ひきりてもたちかへりさすがに思うふ事ぞおほかる
建礼門院右京大夫集より
平教盛の次男。
平家物語では猛将、吾妻鏡では目立たない存在となっている。
壇ノ浦ではありったけの矢を放ち、太刀と長刀を両手に暴れまくる。
源義経に『こいつには敵わない』と言わせた漢。
最後は敵を道連れにして海に飛び込んで死亡。
享年26歳。
平忠盛の三男。
平清盛の異母弟。
壇ノ浦の戦いで弟の教盛と手を取り合って身を投げた。
歌人として優れていた。
享年62歳。
恋しとよこぞのこよひの夜もすがらちぎりし人の思ひ出られて
平家物語 巻第八 緒環より
平清盛の四男。
平家の最盛から滅亡まで見た知盛だからこそ言えたセリフ(下記引用文)だろう。
鎧を重ね着し乳母子の家長と入水。
従っていた侍ら20余人も同じところに沈んで行った。
見るべき程の事は見つ。今は自害せん。
平家物語 巻第十一 内侍所都入より
平忠盛の四男。
平清盛の異母弟。
経盛と共に壇ノ浦に沈んだ。
兄の清盛に従い平家の発展を支えた人物である。
享年58歳。
後列(右から)
平知盛の乳母子。
最後は知盛のところで説明した通り。
子孫が伊賀の服部氏という説があるそうだ。
平(藤原)景清の兄。
壇ノ浦の戦いから生還している。
吾妻鏡によると1192年に源頼朝の暗殺を企て、捕縛後斬首。
平宗盛の家臣。
平家の一族が続々と自決していくなか死ぬ決心がつかない平宗盛、清宗父子。
決心して身を投げたものの泳ぎが達者で両者はぐるぐると泳ぎ回っていた。
そして捕まります。
下記はその際に景経が放ったセリフ。
主君を助けるため敵の船に乗り移り奮戦するが多勢に無勢…。
討ち取られてしまう。
吾妻鏡では平宗盛ともに捕虜になったとある。
我が君取り奉るは何者ぞ
平家物語 巻第十一 能登殿最期
平家物語・巻第十一『内侍所都入』に登場する。
壇ノ浦の戦いでは死なず、落ち延びた。
平家物語・巻第十一『嗣信最期』(屋島の戦い)で伊勢義盛と詞戦(ことばだたかい)を行っている。
これは所謂口喧嘩で源氏の金子家忠という者が両者を諫め、弟の親範が矢を放ち盛嗣の鎧の胸板を射貫き終わる。
壇ノ浦の合戦では忠光、景俊と同様に逃げ延びた。
最後は源頼朝に捕らえられ処刑されている。
平重盛の六男。
平家物語・巻第十二『六代被斬』によると屋島の戦いから離脱して行方不明になっていたが、和歌山県の湯浅城に匿われていたとある。
生き延びた藤原景清ら忠房の元へ集まり源氏に抵抗。
源氏から何度も何度も攻撃を受けるが死守した。
源頼朝は平治の乱で敗北した源義朝の三男。
本来頼朝は平治の乱で処刑されるはずだったが、平清盛の継母・池禅尼の嘆願のおかげで伊豆流刑で済んでいる。
池禅尼の使者として遣わされたのが忠房の父・平重盛。
故に源頼朝は平重盛を命の恩人だと思っている。
頼朝は『重盛公には恩がある息子が生き残っているならば命は助けよう。』と忠房に伝えた。
それならばと忠房、六波羅に向かいその後関東に護送され頼朝と対面。
どんな会話をしたのかは分からない。
『都(京)にお上りなされ。』と云う頼朝。
上京の途中、勢田の橋(滋賀県か?)の辺りで忠房の首は落とされた。
頼朝は平家の恩情で生き延びたが、自分を見逃したから平家は滅亡した。
同じ過ちを繰り返さない。
平清盛の正室。
清盛亡き後の中心人物として活躍。
最後は孫の安徳天皇を諭し共に入水。
平家一門之墓については以上。
壇ノ浦の戦いで生き残ったとされる人物の墓が幾つかある。合戦後に消息を絶ったため戦死の処理をしたのかもしれない。
ちなみに源頼朝は平家を根絶やしにしていない。平忠房の項で紹介した頼朝の恩人、池禅尼の息子・平頼盛(清盛の弟)は早い段階から頼朝に近づく機会があり傘下に降っている。
当然ながら平家物語では裏切り者扱いになってしまう訳であるが…。頼盛は平家の没落を予想していたのだろうか。裏切り者ではなく先見の明があったという風に捉えることも出来る。
耳なし芳一の怪談について
耳なし芳一が広く知られるようになったのは小泉八雲の『怪談』に取り上げられてからだと云われている。
耳なし芳一の怪談の内容
赤間ヶ関に芳一という目が見えないの琵琶法師が住んでいました。彼は平家と源氏の物語を吟唱を得意とし、その中でも壇ノ浦の戦いの歌は鬼人すらも涙が止まらないほどに素晴らしいものでした。
詩歌や音楽が好きな阿弥陀寺の住職が彼を才能に惚れこみます。芳一は住職から寺院の一室、食事を与えられそのお返しに琵琶の演奏をすることになりました。
ある夏の日の夜、住職が外に出ていたので芳一は縁側で琵琶の練習をしていました。そのとき『芳一!』と住職ではない威圧的な声が彼を呼びます。
芳一は『私は目が見えません。何方が呼んでいるのですか?』と。
相手はどうやら武士のようだ。『拙者の殿さまがお主の壇ノ浦の戦いの歌を是非聞きたいと御所望だ。ついてこい!』侍に逆らうのは危険なことでしたので芳一はついていきます。そして殿さまの屋敷に到着し壇ノ浦を奏でます。
すると皆大絶賛、そしてクライマックス、尼御前が安徳天皇を抱き入水したシーンでは一同は声をあげ取り乱したように嘆き悲しみました。
演奏が終わると『これから後六日の間毎晩殿さまに演奏を聞かせてあげてください。これは御忍びですので他言は無用です。』と伝えられ芳一は寺へ帰ります。二日目も殿さまの屋敷で演奏し大盛況を博します。
しかし阿弥陀寺の住職が芳一の外出に気づきます。何処へ行っているのか尋ねても芳一は口留めされているため答えません。嫌な予感がした住職は寺の下男に芳一を監視し夜外に出て行ったら尾行しろと命令しました。
翌晩やはり芳一は寺を抜け出したので下男はそのあとをつけます。真っ暗なうえ雨が降っていたので見失ってしまいます。町を通り芳一が通っている家の住民に尋ねますが誰も知らない様子。諦めて阿弥陀寺に帰ると墓地から琵琶の音が聞こえるので一同はビックリします。
安徳天皇の墓の前に独り座り琵琶を鳴らし、壇ノ浦の合戦を歌うハイテンションな芳一。墓の上にはたくさんの死者の霊火が蝋燭のように燃えていました。下男は芳一を連れて行こうとしますが、芳一は言うことを聞かないため無理やり抱えて寺へ連れ帰りました。住職は芳一を問い詰めます。
最初こそ語ることを躊躇しましたが、事の重大さに気づき全てを打ち明けます。『なんていうことだ…。お前は平家の霊に八つ裂きにされて殺される。』住職は芳一を裸にし身体中に般若心経を書つけ『今夜私が出て行ったら縁側に座って待ちなさい。そのままじっとしていれば助かる。私のいう通りにしていれば必ず助かるから。』といい出掛けます。
その晩、芳一は琵琶を傍に置き縁側でじっと待ちます。すると『芳一!』と侍が力強く呼びます。『芳一!!』『芳一!!!』と何回も呼びますが返事がありません。
侍は琵琶と耳をふたつ発見します。『殿に出来る限りのことはしたという証拠でこの耳を持って帰ろう』といい芳一の耳を引きちぎって帰っていきました。
身体全体にお経を書いたつもりが耳だけ書かれていなかったため耳なし芳一になってしまいました。耳の怪我は医師の助けで程なく治りました。この不思議な話は噂で広まり忽ち芳一は有名人になりました。
貴人らが芳一の吟唱を聞くために駆け付け、たくさんの贈り物をし芳一はお金持ちになったとさ。
以上が耳なし芳一の怪談。
恐ろしい話ですが、ハッピーエンドなんですね!
終わりに
赤間神宮はパワースポット、また心霊スポットとしても有名とのこと。
怪談・耳なし芳一ゆかりの地だから仕方が無いだろう。
御利益は『水難除け、家内安全、安産祈願…etc.』。
これは祀られている安徳天皇に由来している。
尊く幼い帝の命が生まれ変わり海を見守る神様に昇華したということか。
パワースポットと心霊スポットは紙一重。
どちらの視点で訪問するのかはあなた次第である。
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