蟻尾山に流れる心霊の噂について考える

蟻尾山

佐賀県鹿島市にある蟻尾山。

中腹には野球場や陸上競技場などを伴う大規模な公園が設置され、休日になると大変賑やかになる。

戦国時代、この山は鹿島平野から佐賀平野を一望出来る戦略的重要拠点だったため城が築かれた。詳細は後述しようと思う。

歴史も興味深いが、今回ここを取り上げた一番の理由は、蟻尾山に心霊スポットの噂があると聞き入れたからだ。

何か根拠となる経緯はあるのだろうか?

ちょっと調べてみよう。

 

蟻尾山の場所

蟻尾山

国道207号線の蟻尾山公園の信号を公園方面へ曲がる。

下の地図の赤ピン辺りに車を停めるスペースがある。

蟻尾山公園(蟻尾城跡)の案内板に縄張図が書かれているので、参考にするといいだろう。

登山道は案内板の背後にあったと思う。

 

蟻尾城の歴史

蟻尾山

標高一八〇メートルの蟻尾山上に築かれた山城で、在尾・有尾などとも記される。

文正元年(一四六六)大村家徳が千葉氏に対する防衛のため築いた(肥前旧事)

平凡社 発行 佐賀県の地名 蟻尾城跡より

大村氏の出自は諸説あり正確なことはわかっていない。

藤原純友の子孫で伊予国から肥前国に入ったと伝わる。日本の神様である天道根命の遠い血脈だという説もある。

戦国時代には衰退していて、有馬氏の傘下でどうにか生き延び、江戸時代に入ると肥前大村藩主として明治維新に至るまで一帯を治めている。

戦国時代初のキリシタン大名である大村純忠が有名。

詳細は不明であるが、大村家徳は九代目らしい。

蟻尾・・・山の読み方は『ぎび』、城になると『ありお』と読むらしい。

 

蟻尾山

この最高所は現在、豊前坊(彦山権現)と呼ばれ、若殿分集落で四月と七月に祭を催す。

ここに造立年代が明らかでない『大天狗』の石祠と『右心信大檀那平氏容光、奉建立弁才天御宝殿一宇諸願成就、永正九壬申年十二月吉日、平常親』と記す石祠が奉祠されている。

平凡社 発行 佐賀県の地名 蟻尾城跡より

『大天狗』と『永正九』は何となく読めたが、他は摩耗していて殆ど解読不能だったので、この情報は有難いし、たいへん貴重である。

永正9年は1512年。

『佐賀県の地名』によると平常親は大村氏の一族であろうと推定されるが、出自は不明としている。

また永正9年の頃には蟻尾城は廃城となっていて、石祠の存在から予想して修験道の修行場に様変わりしたのではないかと記されている。

 

心霊スポットの噂

蟻尾山

他の心霊スポットのサイトを覗くと『自殺あった。或いは多発する。』というニュアンスの事が書かれている。

試しにデータベースサービスで『蟻尾山&自殺』と調べたが、めぼしい情報は無い。

ついでに事件や事故も検索してみたが『公園のチェーンを盗んだ犯人が捕まった。』いう記事と『保険金殺人の家族が蟻尾山公園によく遊びに来ていた。』というこの件とは直接的な関係がない事件の記事しか見つからなかった。

このサービスには全ての事件や事故が網羅されているわけではないので、もしかすると自殺はあったのかもしれない。

ただ多発するような場所なら確実に記載されているはずだ。それにもっと世間的に有名になっていてもおかしくないだろう。

 

終わりに

蟻尾山

城跡であるから古戦場の可能性も考えたが、合戦が行われたという記述は見つからなかった。というか蟻尾城の情報は余りに少なすぎる。

修験者の山は神秘的、悪く言えば霊的な印象があるので、その線も考えた。なんせ『大天狗』の石祠があるから。蟻尾山は修験者の縄張りで近寄りがたいイメージがあったのかもしれないと想像してみる。

追記 2023/11/27

文明九年(一四七七)に小城の千葉胤朝に包囲された蟻尾城は陥落し、城主大村家親は、本城へ逃げ去ったが、城主家親の夫人は、幼児を抱いて道に迷い、松原の中を数人の家来に守られて逃れていた。その時、千葉勢の騎馬武者に追跡され、そばの草むらに身をかくした。

ふるさと鹿島 : おとしよりからきいた話 泣きびすさんより

『泣きびすさん』と呼ばれる石碑について書かれた本を発見した。

この話の続きであるが、幼児の泣き声で千葉勢に見つかってしまい、家来は切り殺され、最期を悟った夫人は懐剣で幼児の胸を刺したのち、自らの喉を貫く。夫人は絶命の間際に『これからは、泣く子を泣かないようにしてあげよう』と言ったとか。

その霊を慰めるために建てたのが『なきびすさん』で、民衆は夫人の言葉にあやかって子供の泣き癖を治すためにお参りしたと云われている。

夫人を乳母としている話もあるようだ。

家親の女に緑姫というのがいたが、在尾城を抜け出して西牟田の薬師下付近まで逃げて来た。しかし、遂に捕らえられて刺殺されたとか、池の中に身を潜めていたが蛭に吸われて死亡したとか伝えられている。里人はその死を憐れみ、この地を緑姫に因んで、『みどり』と呼ぶようになったという。

鹿島市史 上巻 封建社会の進展 4.藤津地方の動きより

また蟻尾城を抜け出して無念の内に亡くなった緑姫の言い伝えも残っている。

この他にも、千葉勢によって水を断たれた蟻尾城兵がまだ城内に水が豊富にあることを見せかけるため白米で馬を洗ってみせたという逸話も残っている。

いちのまる
いちのまる

白米で馬を洗う話は他の城でも言い伝えが残っていますね。
確か柳田國男が何かの本でこのことに触れていたはず。

どうやら蟻尾城は戦場となったことがあったようだ。

そういう背景があって蟻尾山に心霊の噂が流れているのかもしれない。

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