岩手県岩手郡雫石町にある森のしずく公園(旧・慰霊の森)。
全国に存在する数多の心霊スポットの中でも取り分け恐怖度&危険度が高いと噂されている。
一体、何が起きた場所なのだろうか?歴史を振り返ろう。
旧・慰霊の森の歴史
1971年(昭和46)7月30日午後2時3分頃。岩手県盛岡市の西10km、雫石町の上空にて。
13時33分に千歳空港を出発した羽田行き全日空58便ボーイング727機と、自衛隊第一航空団所属のジェット戦闘機F86Fが衝突。これを全日空機雫石衝突事故という。
SOS緊急信号を発した後、付近を飛ぶ航空機がこれを傍受したものの、悲鳴のような叫び声を最後に発信は途絶えた。自衛隊機のパイロットはパラシュートで降下し、同県雫石町内の病院に収容される。
衝突後、全日空58便ボーイング727機は暫く飛行していたが、降下状態から復帰できず、音速を超えて空中分解し墜落。乗員乗客162名全員が死亡した。
乗員乗客は空中分解した機体から落下したため、瞬間的に空中を彷徨い広範囲に散らばった。遺体はどれも衣服がズタズタになり、衝撃で殆どが血まみれで、身元確認に難航したという。
刑事裁判
全日空58便ボーイング727機と衝突した自衛隊の訓練生とその教官が逮捕されている。(訓練生と教官は別の機体に搭乗)
刑事裁判で訓練生は無罪、教官には禁錮3年執行猶予3年の判決が下った。
事故が起こった最大の原因はジェット旅客機が通るルートに自衛隊機が進入してしまったためである。臨時で設定された『盛岡』という訓練空域に問題があった。
・訓練生はジェットルートの事など知らず、指示を遂行した結果事故を起こした。故に無罪。
・教官はジェットルートが盛岡市街を中心に南北に通っているという間違った認識をしており、その西側を飛行すれば問題ないと考えていた。
訓練空域を設定したのは教官ではない。とある上官が設定し、数名の上官がこれを承認した流れである。
このとき、誰かが『付近にジェット旅客機のルートがあるから注意すべし。』と伝達出来ていればこの事故は起こらなかったということだ。
教官は裁かれたが、その上官は誰も裁かれなかったそうだ。
民事裁判
国(自衛隊)、全日空の双方に過失が認められ、国の責任がより重いと判断された。
自衛隊に関しては上で述べた通りだが、全日空58便ボーイング727機も回避措置をしていれば事故にならなかった可能性があったからだ。(ジェットルートは外れていなかったが)
最初、過失割合は6:4。後に国が2、全日空が1となった。
乗客の遺族は国に対して訴えたようだが、詳細は分からない。
その後
現地案内板より
事故後、航空交通安全緊急対策要綱が発表され、訓練空域と民間航空路が完全に分けられている。
航空法の改正が行われ『運航ルールの厳格化』や『トランスポンダーやフライトレコーダーの装着義務』などが徹底された。また、レーダー施設の重要性が高まり研究と拡充が行われるようになった。
雫石町上空での全日空機と自衛隊機の衝突事故による犠牲者を慰霊するため 慰霊の森を設置・管理し 広く一般に憩いの場や航空安全を祈念する場として開放しています
内閣総理大臣 安倍晋三 書 『森の雫となりて』の石碑背面文より
森のしずく公園(旧・慰霊の森)は、空中分解したボーイング727機の残骸が降り注いだ場所である。
1972年(昭和47)に全日空機遭難者慰霊碑(内閣総理大臣 佐藤榮作 書)を建立。1975年(昭和50)に慰霊堂や上記写真の航空安全祈念の塔が設置され慰霊の森が開かれた。
2019年(令和元年)に老朽化のため航空安全祈念の塔を解体&新設。2020年(令和2)に慰霊の森から森のしずく公園に改称され現在に至る。
終わりに
森のしずく公園(旧・慰霊の森)が心霊スポットと言われる理由は全日空機雫石衝突事故にある。
多くの方々が非業の死を遂げた場所であるから、このような噂が流れてしまうのも理解できなくはない。ただ、幽霊云々と面白おかしく騒ぐのは極めて不謹慎であるし、滑稽でもある。
この事故に限らず数多の犠牲の上に私たちの生活が成り立っていることを考える必要があるだろう。
こんなサイトを運営している私が言っても何の説得力もないかもしれないが……。
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