福井県坂井市にある丸岡城は1576年(天正4)に柴田勝豊が築いた平山城である。霞ヶ城とも云う。
天守は『現存12天守』の一つで、国の重要文化財に指定されている。
近年まで『日本最古の現存天守』を謳っていたが、昨今の研究で江戸時代前期に築かれたと判明した。
いずれにせよ丸岡城の史跡的価値は高く、中世・近世の城郭を愛好する者にとって、一度は訪れたい城の一つであることは変わりない。
さて、今回紹介するのは、丸岡城に残る2つの伝説についてだ。
興味深い話なので是非読んで頂きたいと思う。
お静慰霊碑について
丸岡城址にはお静慰霊碑なるものがある。
『ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙』という俗謡が伝えられている。
丸岡城 伝説『人柱お静』より
丸岡城の築城が進む中、どういう訳か天守台の石垣が何度積んでも崩れてしまい、一向に工事が捗らなかった。
『神か悪霊かの仕業か。人柱を立てれば治まるのではないか?』と誰かが上伸したそうだ。
そこで人柱に選ばれたのが隻眼のお静である。
お静は子供を武士に取り立てて貰うことを条件に自らの命を差し出した。
そして、天守の中柱の下に埋められ、それから石垣は崩れなくなったと云う。ところが、お静の子は武士に取り立てて貰えなかった。お静は怨霊となり、藻刈りの時期になると春雨を降らせ堀の水をいっぱいにして皆を困らせた。
人々はお静を鎮めるため小さなお墓を建て、これを慰めたと云う。
『神か悪霊かの仕業か。人柱を立てれば治まるのではないか?』と誰かが上伸したそうだ。
そこで人柱に選ばれたのが隻眼のお静である。
お静は子供を武士に取り立てて貰うことを条件に自らの命を差し出した。
そして、天守の中柱の下に埋められ、それから石垣は崩れなくなったと云う。ところが、お静の子は武士に取り立てて貰えなかった。お静は怨霊となり、藻刈りの時期になると春雨を降らせ堀の水をいっぱいにして皆を困らせた。
人々はお静を鎮めるため小さなお墓を建て、これを慰めたと云う。
丸岡城には心霊スポットの噂があるらしい。
恐らくはお静慰霊碑の存在が関係しているのだろう。
お静は確かに怨霊となって悪さを働いたかもしれないが、憐れんだ人々によって丁寧に祀られている。
もう既に成仏しているか、若しくは丸岡城の守護神として鎮座しているのではないだろうか。
終わりに
天正三年(一五七五)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。
豊原は一向一揆の最後の根拠地であった為、この地に築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてくることも、しばしばであった。
しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に”かすみ”をかけて城の危機を救った。
この伝説が別名『霞ヶ城』と呼ばれる所以である。
現在も春先などに、すっぽりと”かすみ”に覆われた、『霞ヶ城』を見ることが出来る。丸岡城 この井戸の由来より
丸岡城の別称『霞ヶ城』の由来について記されていた。
お静伝説、霞の大蛇。
丸岡城は神秘的な城である。
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