千葉県市川市の古刹・真間山弘法寺。
『ままさんぐほうじ』と読む。
弘法寺の起源は奈良時代にまで遡り、真間の手児奈を供養するため僧・行基が建立したと伝わる。
平安時代になると弘法大師(空海)が七堂を構え弘法寺と命名し天台宗に改宗したと云う。
1275年(建治1)、弘法寺の住職・了性が日蓮の弟子である日常(富木常忍)との問答対決に敗れ、日蓮宗に転じた。
日常の養子で日蓮六老僧の一人・日頂を初代貫主とした。
鎌倉時代末期以降は地元の豪族・千葉氏に手厚く庇護され、寺下には門前町が発展していった。
1591年(天正19)、徳川家康から30石を与えられ、1695年(元禄8)には徳川光圀(水戸黄門)が訪れ、茶室を賞賛し『遍覧亭(へんらんてい)』と称したと云う。
1888年(明治21)に火災が発生し殆どの建物を喪失している。
当時の新聞記事を見つけたので、要約しよう。
1月15日の午後11時30分、東葛飾郡真間村の弘法寺の祖師堂から出火。
本堂、釈迦堂、山門などを全焼、山の下へ飛び火して亀井院を焼き、その他に民家、茶屋の数棟が焼けた樹木にも燃え移り村民は非常に狼狽していた。
陸軍学校の生徒の尽力で翌日16日午前3時30分に鎮火した。
当寺は先年内務省より保存の為、金300円が下賜される程の古拙名山で、火の神の無情は誠に惜しむべきものである。
当時の新聞を発見出来て感動しました!
結構な大火事だったことが分かりますね。
怪奇スポット、涙石?!
正面石段の下から27段目にある石。多くの石がある中、この石だけが涙を流しているように濡れ続けている。
由来は江戸時代、作事奉行の鈴木修理長頼が日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から船で運ぶ途中、市川の根本付近にさしかかった時、どうしたことか船が動かなくなってしまいました。
長頼は「近くの弘法寺に仏縁あり」と思い、積んでいた石を勝手に近くの弘法寺の石段に使用してしまったのです。長頼は幕府から責任を追求され石段で切腹。その時の無念の血と涙が染み込んでいるという伝承がある。
真間山弘法寺HP(引用文urlリンク切れ)より
写真が涙石である。確かにこの石だけが濡れていた。
上記の伝説からか心霊スポットの噂も流れているようだ。物語としては大変面白いけれども、このような事実は無い。
鈴木長頼は江戸幕府の幕府御大工頭を務めた人物であり、日光東照宮の改修や江戸城、増上寺の保全などに携わり、1705年(宝永2)11月19日、勤務中に病に斃れ暫くして亡くなったという記録が残っている。
TV番組『世界の何だコレ!?ミステリー』でこの涙石が紹介されたらしい。
千葉県市川市のローカルネタを紹介されているサイト『市川にゅ~す』さんに番組の内容が書かれていたので引用させていただく。
調査の結果、石段の石は「安山岩」という火山の溶岩で出来たもので、涙石も他の石も同じ種類なのだとか。
ただ涙石に関しては気泡が多く、他の石よりも赤みがかっていることから、溶岩の表面に近いところから採掘された石ではないかと専門家は語っていました。
周りの石よりも気泡が多いことで地中から染み出た水を吸い込みやすいことが濡れやすい原因なのではと推測していました。
1/24(水)放送の「世界の何だコレ!?ミステリー」で市川市真間の弘法寺・涙石が紹介されました、なぜこの石だけずっと濡れているのかを検証
『市川にゅ~す』より一部引用
他の石と比べると摩耗が激しいため素材が違うのかと私は思っていたが同じ材質との事。気泡が多いということは、それだけ削れやすいということかしら。不思議な事もあるもんだ。
終わりに
涙石に伝わる伝説が残酷なだけに心霊スポットとして噂が立ったようだが、不思議スポットやB級スポットの類に感じた。
こういうサイト運営している都合、凄惨な事故や事件を扱うことが多いので、ライトな心霊スポットは心が休まる。
劇的な内容の方が印象的で読まれ易い傾向にあるが、たまにはこんな感じの記事も良いではないか。
コメント