甲府代官所が管轄した山崎の刑場と幕末明治期の刑死者について

山崎処刑場

酒折の山崎三叉路の近くにある山崎刑場跡。

山崎の刑場は甲府代官所管轄の仕置き場で、江戸時代中期から1872年(明治5)まで使用されていたそうだ。

現地にそれと印す説明板などは無い。

高さ2m40cmの髭題目の碑、六地蔵、数基の小さな墓碑などが一所に集まっている。刑場内の各所にあったものを回収して一纏めにしたのだろうか。

建物や電柱の陰に隠れた位置にあるので、交通量の多い国道沿いにあるのにも拘らず存在感が薄い。もしかすると敢えて目立たないようにしているのかもしれない。

 

山崎刑場で処刑された歴史上の人物

山崎処刑場

1868年(慶応4)処刑 小沢一仙(おざわ いっせん)

伊豆国(静岡県)出身の彫刻家、尊皇攘夷派の志士。

小沢一仙は偽勅使事件で罪に問われ山崎刑場で処刑された。

勅使は『天皇からの使者』の意。小沢一仙は公家の高松実村を偽物の勅使に仕立て甲府城に圧力を掛けたが、後から派遣された正規の使者によって虚偽が発覚し捕らえられた。彼は尊王の志士だから草莽として少しでも官軍に協力出来ればと考えたのだろう。

しかし天皇の使者に扮するのは流石に無理があった。

 

山崎処刑場

1871年(明治4)処刑 黒駒勝蔵(くろこまの かつぞう)

甲斐国(山梨県)出身の侠客、尊王攘夷派の志士。

甲州博徒の親分として暴れ回った後、一家を解散して相楽総三率いる赤報隊に入隊。官軍に従い討幕を目指した。赤報隊の解散後も官軍方で戦い続けたが、戊辰戦争終結から凡そ3年後、何らかの罪を着せられ山崎の刑場で処刑された。

処罰された理由が余りに不明瞭である。新政府としてはやくざ者の助力を得て討幕を果たしたと世間に知られたくなかったのかもしれない。

或いは単純に過去の罪を咎められたか?

山崎処刑場

1872年(明治5)処刑 島田富重郎(しまだ とみじゅうろう)、小沢留兵衛(おざわ るべえ)

大小切騒動の首謀者2人。

大小切騒動は、1872年(明治5)に山梨県で発生した一揆である。

江戸時代の税金は基本的に米で納めていた。しかし甲斐国は稲作が困難な環境であったため特殊な納税方法が認められていた。米納と金納を組み合わせた徴収方法で、これを大小切税法と呼ぶ。

江戸幕府が滅び明治政府が樹立され新しい時代が成った。

大蔵省は全国一律の税法を目指して大小切税法の廃止を発布。これに対して猛反発した領民は一揆を起こし暴徒は6000人まで膨れ上がった。

山梨県庁にはこれを抑える力が無かったため訴えを認める公文書を与えて鎮静を図ったが、甲府に官軍が到着すると県庁方は態度を一変し、一揆勢から公文書を取り上げ首謀者を取り締まった。

一揆の首謀者として島田富重郎と小沢留兵衛が絞首刑、倉田利作は準流10年の刑に処されている。死刑を免れた倉田だが、その後脱獄を企て処刑された。

倉田の処刑地は定かで無い。

 

終わりに

山崎処刑場

1959年(昭和34)に発行された『甲州風物誌』に山崎処刑場についての記載があったので、興味深い記述を箇条書きで紹介して終わろう。

・1957年(昭和32)に供養塔の隣にあった家の土間から多量の人骨が発掘された

・霊媒師は大小切騒動で亡くなられた方の人骨だと云う

・当時の県令が供養塔を石橋として利用した

・祟り恐れた県令が石橋を元の場所に戻したが、上部が欠けてしまった(一枚目の写真を見直していただきたい)

・大きな供養塔は2枚あったが、1枚は道路の南側に放置されたまま(今はもうないだろう)

・むかしは『仕置場』と書かれた石があったけど無くなった

『骨が見つかったので霊媒師を呼んで云々』といった話が続くので少々胡散臭いけれど、日時や場所、氏名などが具体的に記載されているので信じるに値するか?

人骨発掘の有無は当時の新聞を漁れば判明するだろうから、いつか図書館へ行って探してみようかと思っている。

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