甲斐の仕置き場のひとつ押切刑場跡へ!ここで初めて処刑されたのは…?

押切処刑場

江戸時代の甲斐の刑場は、石和と市川の押切だけであった。

当時、代官所は五丁目に、獄舎は一丁目にあり、刑の執行日になると縄をつけた罪人が刑場につれてこられた。

言伝によると刑場は芦川の流れの南側にあったといわれている。

この供養塔は、安政3年(1856)に建てられたので、堤防改修により、位置が変わっている。

現在、危険なため横に寝かせてある。

青洲堤(芦川堤の別称)は、明治時代数回にわたる洪水で悩まされていた時、渡辺青洲が私財を捨てて治水に専念してくれたことにより名づけられた。(昭和42年11月20日町指定)

現地案内板より引用

笛吹川と芦川の合流地点にある倒れた髭題目の碑。江戸時代に処刑が行われていた押切刑場の名残である。

1974年(昭和49)に発行された『八州廻りと代官』という書籍に市川陣屋と押切刑場、及びそこで処刑されたであろう刑死者の情報が記載されている。

完全引用は難しいのでざっくりと要約して紹介しようかと思う。

いちのまる
いちのまる

石和の刑場は過去に紹介した山崎刑場跡のことだと思うのでリンクを添付します。興味がある方は↓をご覧ください!

 

押切刑場跡

1765年(明和2)、市川陣屋は駿府の紺屋町陣屋の出張陣屋として設置された。独立して本陣屋となったのは1795年(寛政7)のこと。

市川陣屋で初めて死罪(斬首刑)の判決が下ったのは1789年(寛政元年)だった。死刑囚は百姓の関松、平四郎、吉左衛門、吉之丞の4名。罪状は集団強盗である。

一、御仕置場の儀、市川大門村富士川辺空地河原(地名を押切といった)にて執行申し候場所、石河原につき土壇砂寄せ(土壇場のことで、首を切り落とす穴の前に土盛りした部分のこと)などは前広に(砂であるから、土を盛る場合より巾を広く取れという意)穢多どもえ申しつけ、とりつくろいさせ候筈、相いきめ候事。

八州廻りと代官 死罪の仕置 127頁より

初めての処刑だったため上記以外にも様々な取り決めが通達され執行に至った。

押切刑場跡

『八州廻りと代官』ではこのほかに市川陣屋から出た初の磔刑と獄門刑も紹介している。

上述した4名の死罪は刑場の指定がされていたが、この2件は『決まり仕置場が無い場合は死馬捨て場や村外れ、或いは使っていない空地で処刑しろ』とあるので、どこで処刑が行われたか判然としない。押切刑場とは関係がない処刑かもしれないがついでに紹介しておく。

1824年(文政7)に磔刑となった久蔵は『親不孝のきわみ』が罪状であった。親を殺したのかと思いきや『久蔵が家の書付類をみだりに持ち出す→父親が怒って久蔵を殴る→逆ギレして父親を殴り返す』たったこれだけの理由で極刑が下ったのである。

明らかな凶悪犯は速やかに処断されたらしいが、久蔵は5年以上も牢に繋がれた。『八州廻りと代官』の筆者は以下のように推測している。

親に殴られたのでカッとして殴り返した、といった理由で、不届至極につき磔であったから、何か歯切れの悪いものがあり、老中誰一人として進んで判を押すものがいなかったのであろう。

八州廻りと代官 獄門仕置 133頁より

当番制の老中が自分の番で執行するのを嫌がったのだ。牢獄という劣悪な環境であれば勝手に病死するだろうという思惑があったのではないかと云う。

久蔵の磔と同じ年に権五郎が獄門刑に処された。罪状は祖母の殺害。金銭のトラブルから殺人に発展したようだ。

 

終わりに

押切刑場跡

刑場跡は事情が事情だけに幽霊出没の噂が絶えない。

ただ案内板に”刑場は芦川の流れの南側にあったといわれている”とあるので処刑は現地から少々離れた場所で行われていたと思われる。となると幽霊が出るのはここではないかもしれない。

ただかつての刑場に建てられた供養塔が安置されているので、それに紐付けられた呪縛霊が云々という話は成り立つだろうか?

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