小田氏の乱の悲劇!難台山城の攻防戦に纏わる首洗いの滝について

首洗いの滝

如何にもな名称である。

茨城県笠間市の南西に位置する難台山。この山中に小田五郎が築いたとされる難台山城跡(男体山城とも)が残っている。首洗いの滝は南北朝時代に起きた小田氏の乱で難台山城に籠城した小田五郎やその配下の死に関係しているらしい。

さて、小田氏の乱とはどのような戦いだったのだろうか?

 

首洗いの滝の場所

首洗いの滝

首洗いの滝まで自動車は乗り入れられないため、手前にある滝入不動尊の駐車場に停めて徒歩で向かおう。駐車場から徒歩で30分程の距離にある。少々勾配があるので、運動不足の方は覚悟したほうがいい。

因みに難台山城跡は首洗いの滝から更に1時間程かかる。どうせ来たのだから城跡も見ていこうと登ったが、予想以上に厳しい登山道で後悔した。なだらかなコースもあるようなので、体力に自信のない方はそちらから登ることをおすすめする。

城の遺構は殆ど確認出来ない。(素人目にはわからないという意味で)

 

 

小田氏の乱について

首洗いの滝

小田氏の乱のきっかけは小田孝朝(五郎の父)が小山若犬丸を匿ったことにある。

まずは小田氏の乱の前に小山氏の乱を簡単に説明しなければならない。

小山氏の乱は南北朝時代に小山義政が鎌倉府に対して起こした反乱だ。鎌倉公方の足利氏満は虎視眈々と下野国の支配を狙っていた。そこで小山氏と宇都宮氏の争いに目を付ける。

両者の戦いは小山氏に軍配が上がったが、足利氏満は『鎌倉府が統治する関東で何を勝手にやっているか?』と小山氏に向けて討伐の軍を送った。

いちのまる
いちのまる

宇都宮氏が勝っていれば宇都宮氏に軍が向けられたのかな?

小山義政は一旦降伏したが、直ぐに反旗を翻した。しかし多勢に無勢である。義政は追い詰められ自害したと云う。その嫡男の若犬丸も父の遺志を継ぎ鎌倉府に対抗したが追討され行方をくらましている。

首洗いの滝

鎌倉府の追討から逃れた小山若犬丸は小田孝朝の下に身を寄せていた。

余りにリスクが高いと思うが、何故孝朝は彼を匿ったのだろうか?

それには幾つかの説があるようだ。

・南朝復興のため

・鎌倉府からの言い掛かり

・小山の乱で活躍したのに報酬が少なかったため

・鎌倉府から次の標的になる可能性を恐れた

いずれにせよ若犬丸の隠匿が発覚してしまい孝朝は幽閉の身となる。

早速、鎌倉府は若犬丸の討伐を理由に小田氏の居城に軍勢を送った。

 

首洗いの滝

小田領の留守を預かっていた小田五郎は居城の小田城は守り難いと判断し難台山城に籠城した。

小田五郎は常陸国の真壁顕幹から兵糧などの支援を受けて約8ヶ月間耐え忍んだが、兵站を断絶されてしまい止む無く城から討って出て戦死した伝わる。

首洗いの滝は討ち死にした城兵の血が流れた場所なのかもしれない。

若犬丸は戦場から抜け出し奥州へ落ち延びた。或いは難台山城の戦いの時には離脱していたとも。奥州で再び旗揚げするも敗北の後自害したと云う。そこでも落ち延びて蝦夷方面に逃亡したという情報も見受けられる。

 

終わりに

首洗いの滝

幽閉の境遇にあった小田孝朝は所領の一部を没収されたが命までは奪われなかった。

孝朝の助命は難台山城の抵抗があっての結果だろうか?それとも早々に城を明け渡していれば五郎も死ぬことはなかったのだろうか。五郎のお蔭で一族が存続出来たと考えないと何だかやるせなき気分になる。

この後裔に一部の界隈で愛されている戦国最弱と名高い『不死鳥の氏治』が登場することになる。

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