雛鶴隧道へ!名前の由来は鎌倉時代に存在したと伝わる悲劇のお姫様から?

雛鶴隧道

昭和八年十一月雛鶴隧道の開鑿起工あり。總經費二萬五千圓を投じ、延長二百五十米の隧道は昭和十年十二月に至り竣工、自動車を通じるものとなれり。

南都留郡郷土誌 秋山村 秋山村道路の變遷より

1933年(昭和8)11月に雛鶴隧道の開削が始まった。

総経費25,000円を投じ、延長250mの隧道は1935年(昭和10)12月に竣工された。

自動車が通れるトンネルとなる。

雛鶴隧道は新雛鶴トンネルが1986年(昭和61)に竣工されるまでの凡そ50年間、雛鶴峠の難所を突破する経路として大いに活躍した。

 

雛鶴の由来について

雛鶴隧道

雛鶴は鎌倉時代末期に存在したと伝わる女性の名前である。建武の新政で知られる後醍醐天皇の皇子・護良親王の寵妃だったらしい。

護良親王は後醍醐天皇と反りが合わず、更に足利方とも不和であったため鎌倉に幽閉されてしまった。その後、北条時行らが中先代の乱を起こすと皇族を奉じられると都合が悪いと判断した足利方に殺害されている。

護良親王の最期の描写が太平記にあるので引用しよう。

宮ハ半年計籠ノ中ニ。居屈ラセ給タリケレバ。御足モ快ク立ザリケルニヤ。御心ハ八十梟ニ思召ケン共覆ニ被打倒起挙ラントシ給ヒケル處ヲ。淵邊御胷ノ上ニ乘懸リ腰ノ刀ヲ拔テ。御頸ヲ掻ントシケレバ宮御頸ヲ縮テ。刀ノサキヲシカト呀サセ給フ。淵邊シタヽカナル者ナリケレバ。刀ヲ奪ハレ進ラセジト。引合ヒケル間。刀ノ鋒一寸餘リ折テ失ニケリ。淵邊其刀ヲ投捨脇差ノ刀ヲ拔テ先御心モトノ邊ヲ二刀刺ス。被刺テ宮少シ弱ラセ給フ體ニ見エケル處ヲ。御髮ヲテ引擧テ則御頸ヲ掻落ス。籠ノ前ニ走出テ明キ所ニテ御頸ヲ奉見噬切ラセ給ヒタリツル刀ノ鋒。未タ御口ノ中ニ留テ御眼猶生タル人ノ如シ。淵邊是ヲ見テ。サル事アリ加樣ノ頸ヲバ。主ニハ見セヌ事ゾトテ側ラナル藪ノ中ヘ。投捨テゾカエリケル。

国文学会 著 太平記 巻第十三 兵部卿宮薨御事付干将莫耶事より

護良親王は半年ほど牢屋の中で屈んでいらしたので、足が回復していなかったから、心は勇敢であったけれど、打倒され起き上がろうとしたところ、淵辺が胸の上に乗りかかり腰の刀を抜いて護良親王の首を掻き切ろうとしたので、護良親王は首を縮めて刀の先を咥えた。

淵辺は強かだったので刀を奪おうと引いてみると刀の先が一寸余り折れてしまった。

淵辺はその刀を投げ捨てて脇差を抜いて護良親王の心臓の辺りを2回刺す。

刺された護良親王が少し弱ったと見えたので、髮を掴んで直ぐに首を掻き落とした。

牢屋の前に走り出て明るいところで首を見ると噛み切られた刀の先が未だ口の中に残っていて眼はなお生きている人のようであった。淵辺はこれを見て『このような首は主人には見せられない』と言い、傍の藪の中に捨てて帰った。

いちのまる
いちのまる

なかなかに壮絶な最期です……。

雛鶴姫が草むらから護良親王の首を探し出し京都へ運ぼうとする最中に無生野で亡くなってしまったという伝説が残る。これが峠やトンネルに雛鶴が冠された根拠である。

無生野の地名の由来や無形民俗文化財に指定される無生野の大念仏の起りも雛鶴姫の悲劇に関係している可能性があるとのこと。

 

終わりに

雛鶴隧道

雛鶴隧道の心霊の噂は雛鶴姫の悲劇が根拠となっているのだろう。

姫のすすり声が聞こえて来るなんて描写をどこかで見たが、およそ700年前に亡くなった人物の霊が未だ成仏できないと思うと気の毒である。

と言ってもこの話は伝説の域を出ないので、そうであるならば幽霊の話も単なる噂の域を出ていないのかもしれない。

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