福島県いわき市、弁天岬(富神崎)の賽の河原。
賽の河原は三途の川のほとりを指す。あの世とこの世の境目である。
親より先に死んでしまった子供が辿り着く場所で、そこでは子供が積み上げた石の塔を鬼が壊しまわるという謎の所業が繰り返し行われている。子供たちは現世に残した親を供養するために石を積んでいるらしい。最終的には何処ともなく降臨した地蔵菩薩が子供たちを救済するというが、もったいぶらずにとっとと降臨していただきたいものである。
『親より先に亡くなった子供は親不孝である』という思想から発しているようだが、罪の意識すら芽生えていない子供を捕まえて親不孝とはどういう了見だろうか。こういうのは時代背景が影響を与えている場合があるので、現代人には理解しにくい想念が込められているのかもしれない。
こういった由縁からか水子や幼い子供の魂を弔う水辺の霊地を賽の河原と呼ぶことがある。弁天岬(富神崎)の賽の河原はこの類に属している。火山地帯の区画に賽の河原と名付けるケースもあるけれど、これは殺伐とした風景から連想されたもので、水辺の賽の河原とは性格が異なると思う。
もともとは弁天岬の下部にあった海蝕洞にたくさんの地蔵尊が祀られていたが、2011年(平成23)3月11日に発生した東日本大震災で大きな被害を受けた。洞窟にあった地蔵尊や石碑は津波により泥や砂に埋もれてしまったが、有志によって丁寧に掘り出され現在は弁天岬の高台にある。
当地の由来が記された頌徳碑が建立されていたので引用しよう。
頌徳碑
此の地賽の河原餓鬼堂の発祥は幾百年に遡り
水子 幼児供養の靈地でありました
昭和六十年に至り いわき市内郷高坂町○○石材社長○○○○氏が当地に来たり 新たに一大水子供養の
靈地にしたいとの念願で申込まれ 氏の自費を投じて
独力にて建立し荘嚴なる靈地として地方に重きを成し当沼之内の発展に大いに寄与された事はあまねく
周知するところであります
ここに氏の偉大なる功績を湛え 後世に傳え
碑を刻むものであります
昭和六十年六月吉日 沼之内区
『賽の河原餓鬼堂』の餓鬼堂は地名。地名の由来はわからないが、施餓鬼に関する宗教施設があったのかもしれない。施餓鬼とは飢えや渇きに苦しむ霊魂や無縁仏を救済するための儀式のこと。
弁天岬(富神崎)の南側には餓鬼堂横穴群と呼ばれる6世紀後半から8世紀初頭の古墳がある。総数は30基以上あって、須恵器や武具、ガラス玉、人骨などが発掘された。
餓鬼堂、弁天岬(富神崎)、古墳、そして賽の河原。
心霊スポットだと噂されることもあるようだが、ここは大昔から土着の民に守られてきた神聖な土地。心霊スポットなんて言葉は相応しくない。
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