和田峠トンネルに流れる幽霊の噂について

和田峠トンネル

現地案内板を編集引用

長野県諏訪郡下諏訪町と同県小県郡長和町を繋ぐ和田峠トンネル。

竣工年月は1933年(昭和8)1月。名前の通り和田峠に穿たれたトンネルである。

和田峠は江戸時代に敷かれた中山道の和田宿と下諏訪宿の間に位置する峠で最高地点は標高1500mにも達する。そのため冬季になると降雪や凍結の影響をひどく受ける交通の難所として知られていた。

和田峠越えの古道は現在も残されており、ハイキングルートとして整備されている。そこでは石畳や石仏、一里塚など当時の往来の名残を感じることができる。

1978年(昭和53)に新和田トンネル有料道路が開通したため、和田峠トンネルの路線は旧道となったが、通行料を避けて旧道を使用するドライバーも少なからずいた。2022年(令和4年)4月に新和田トンネル有料道路が無料開放されたので、いよいよ旧道の気配が強くなっていくと予想できる。

 

和田峠トンネル

和田峠トンネルには心霊スポットの噂が流れている。

1.トンネル工事で亡くなった作業員の霊

2.落ち武者の霊

3.少女の霊

心霊スポットを扱う幾つかのサイトを眺めてみると以上のように紹介されていた。

それぞれの背景を見ていくことにしよう。

 

1.トンネル工事で亡くなった作業員の霊

和田峠トンネル

和田峠トンネルの工事で死者が出たかどうかはわからない。

それ以前の1894年(明治27)から1896年(明治29)に行われた和田嶺新道の開発は結構な難工事であったという。峠頂上部(トンネルの辺りだろうか)の掘削工事は松本監獄から呼び寄せた100名ほどの囚人が担当。囚人たちは峠に設けた仮の監獄で監視され苦役を課せられた。

今ほどは安全対策を講じていないから、死亡事故が起きた可能性は十分考えられる。

ただその証拠を提示することはできない。

 

2.落ち武者の霊

和田峠トンネル

これには歴史的な根拠がある。

長くなるので詳細は割愛するが、江戸時代末期に幕府軍(高島藩&松本藩)と水戸の天狗党が和田峠の下諏訪側で激しい白兵戦を繰り広げた。戦いに勝利した天狗党の浪士たちは同胞の亡骸を埋めて弔った。その場所は浪人塚と呼ばれ今でも大切に保管されている。

半日戦に浪士軍に一〇余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た六柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。

現地案内板『史跡 浪人塚』より

古戦場だから落ち武者の霊が彷徨っているという具合なのだろう。

いちのまる
いちのまる

実際に大勢の人々が亡くなった場所なので心霊スポットの噂が立ってしまうのも理解できなくはないですが、個人的にはちょっと腑に落ちないし好きな考え方じゃないかな。近代日本を支えた殉職者たちを冒涜しているようで……。

まぁ、ほとんどの心霊スポットがこういう感じで不謹慎なものなんだけどね。

 

3.少女の霊

和田峠トンネル

こちらに関しては全く見当がつかない。

少女の霊って……。あまりに漠然とし過ぎていて話にならない。

 

終わりに

和田峠トンネル

他に心霊の噂の原因になっていそうな事故や事件がないか調べてみた。

1990年代に女性を殺害して捨てたと自供する男性が逮捕された。

犯人の供述から、和田峠トンネルの近くにあった小屋から女性の遺体を発見される。

女性は看護師、男性は入院患者という関係だったそうだ。

新聞の記事からは犯行動機を読み取れなかった。

明治時代にも悲しい事件が起きている。

トンネルからは少し離れているが、旧中山道沿いに『殉職警察官近藤谷一郎君之碑』と題された慰霊碑が建っている。

これは、1889年(明治22)に当地で殉職した近藤谷一郎巡査の霊を慰めるためのものである。

上田警察署丸子分署に勤務していた近藤巡査は窃盗犯の護送を任じられた。和田峠に差し掛かったところで窃盗犯が逃亡。捕らえようとするが石を投げつけられ転倒した巡査。隙を突いた窃盗犯は剣を奪い取り巡査を斬殺。

その後、犯人は近くの茶屋で捕縛されたという。

これらの事件が心霊の噂に直接的な関係を持っているかどうかわからないが、こういった不幸な出来事の積み重ねが噂の源になっている可能性は十分に考えられる。

私には幽霊が見えないので本当に出るか確認のしようはないけれども、ちょっと調べてみると『そういう噂が立っても不思議じゃないのかな?』と考えるに至った。

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