鹿児島県鹿児島市の城山公園から眺める桜島。できれば快晴のときに見たかった。
鹿児島観光で城山公園とその周辺を散策してきたので忘備録として残しておこうかと思う。
名前の通り、かつてここには城があった。南北朝時代に豪族の上山氏が城(砦)を築いたそうである。上山氏は豊後国緒方から鹿児島に入った一族だという。何らかの理由で当地から桜島に移っているが、上山氏のその後の消息はよくわかっていない。
1601年(慶長6)、薩摩藩初代藩主の島津忠恒(家久)が城山の東に鹿児島城を築城した。鹿児島県の資料では『背後の山城(城山)に本丸、二之丸を置き、麓には屋形を置いて藩主の居所としていました。(中略)江戸時代の後半になると、本丸、二之丸は麓の居所を指すようになります。』と説明されている。
西南戦争の銃弾跡
1877年(明治10)1月に勃発した西南戦争の最終局面。
城山を巡る戦いで薩軍に向かって政府軍が放った銃弾の跡が残存している。
西郷隆盛洞窟
薩軍を率いた西郷隆盛が指揮をとったとされる洞窟。
洞窟のなかで読書をしたり碁を打ったりと、悠々緩々な態度だったと紹介されることがあるが、実際はどうだったのだろうか。
おそらくは西郷隆盛の豪胆さを表現した創作だとは思うけれど、伝説に残るような人物であることは確かなので、これはこれでいいと思う。
西郷隆盛終焉の地
1877年(明治10)9月24日、午前4時。政府軍の城山総攻撃が始まった。
死を決した西郷隆盛は5日間過ごした洞窟を出て、幹部の桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎などの私学校の幹部らとともに岩崎谷を下りるが、道中で流れ弾が腰に命中。別府の介錯により49歳で生涯をとじた。
現地には南洲翁終焉之地の石碑が建つ。
敬天愛人の石銘板
敬天愛人は西郷隆盛の座右の銘。
『天を敬い人を愛せよ』という意味。明治時代の思想家・中村正直の言葉。
宗教的な思想から造られた言葉らしいが、西郷隆盛がいう『天』はどのような意味だったのか。
薩摩義士碑
西南戦争に関係する石碑かと思ったら違った。
1755年(宝暦5)、江戸幕府が薩摩藩に岐阜県の木曽川治水工事を命じたそうである。これを受け薩摩藩は家老の平田靱負を総奉行に任じ、約1000名を派遣した。
当時の木曽三川は相当な暴れ川だったため大雨による増水で堤防が決壊。工事は困難を極めた。また監督する幕府の役人が厄介者で現場の人間は大いに苦労した。さらに疫病が流行りどうにもならない状況に追いやられてしまった。
完成までに1年と3ヶ月。犠牲者は84名を数える。薩摩藩総奉行の平田靱負はこの責任を負い自害してしまう。
薩摩藩は幕府に遠慮をしてこのことを公表しなかったが、1920年(大正9)になってようやく慰霊碑が建立された。
石仏十三体
四国八十八ヶ所巡礼(お遍路)になぞらえ城山や古刹跡に弘法大師の像が建てられている。
城山には88体のうち13体が安置されている。
十三仏と関係があるのかと考えてみたけど、ここは弘法大師の像だから違うかな。
城山公園トンネル
1988年(昭和63)3月
延長165m
幅8.5m
高さ:4.5
至って普通のトンネルだが、後述する幽霊の話につながるので記載した。
城山ドン広場
城山ドン広場に建つ明治十年戦役薩軍大本営の碑。
『ドン』は正午の時報に大砲が使用されていたことを由来としている。
西郷どんの『どん』に関係しているのかと思った。
終わりに
城山には心霊スポットの噂が流れている。
武士の霊、少女の霊、子供の霊、トンネルでずぶ濡れの霊などなど、様々な噂があるようだ。
城山の戦いで戦死した兵士は最後の武士であったわけだから武士の霊が出るというのは、あまり認めたくないけれど、なかなか説得力がある。
ただ、敬愛する西郷さんとともに己の信念を貫いた彼らが無念の念を抱いて現世を彷徨っていると思いたくない。『おれらやっちまったな』くらいの朗らかな心持ちで、あの世で盃を交わしていてほしいものである。
少女、子供、トンネルの霊についてはよくわからん。
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