面影橋と久保田藩の処刑場、草生津刑場について【秋田】

面影橋

秋田県秋田市、草生津川に架かる面影橋。

この先に久保田藩の仕置き場・草生津刑場(くそうづけいじょう)があった。面影の由来は『牢獄から連行される死刑囚が水面に映る最期の自分を見た』からだと云う。

ちなみに草生津は石油を意味する『くそうず(臭水)』からきているそうだ。

この一帯は古くから自然と石油が湧出する場所で、明治から昭和にかけて本格的な掘削が行われた。気になる方は八橋油田で調べていただきたい。産油量は少なくなったが、今でも採油は行われている。(2024年7月時点)

 

草生津刑場について

面影橋

〇犯罪者仕置ノ概説

既決獄ニアル(下牢)重罪人ハ年々十月二十七日ヲ期シ、八橋草生津刑場ニ於テ斬罪ノ上梟首ス。三日間晒シ諸人ニ見セシム。其場所左図ノ如シ(井上注・原本に図はない)。又極重罪父殺火付夫殺等ノモノアルトキハ、此日マデ生存セシメズ不時ニ死刑ヲ行フナリ(此日君公御慎、御出坐ナシ)

1973年(昭和48)加賀屋書店 発行 橋本宗彦 編纂 秋田沿革史大成 下より

草生津刑場では、重罪人の処刑は毎年10月27日と定められていて、斬首後に3日間晒された。ただし父・夫殺しや放火などを犯した者は処刑日を待たず執行したとある。

貼付写真の石仏は草生津刑場にあったとされる月桂寺(十王堂)で祀られていた仏像だと云う。右の大きな石仏を『丈三地蔵』と称し、天長地震(830年)で倒壊した勝平寺の遺物ではないかと紹介する書籍がある。本当にそうなら史跡指定されていてもいい気がするけれど、実際のところどうなのだろうか。

左の地蔵尊は『身代延命地蔵尊』と呼ばれ、その謂れが伝わっている。現地に説明板があったので引用しよう。

昔、一人の畳職人がお城の仕事中に畳針をなくし、その畳針でお殿様が怪我をしてしまった。

打ち首になるところを、身代わりとなって助けてくだされたお地蔵様。痛々しいお姿は、幾度も『身代わり』になった証であろうか。

廃寺になっていた当時の十王堂・月桂寺跡に、平成十八年十二月まで祭られていた時には、そのお姿を隠すかのように、下半部を木造の棚で囲われていて、胴より上のみの三尺ほどの地蔵様と思われていた。

身代延命地蔵尊 現地案内板より

1914年(大正3)発行の南秋田郡案内に『西岸は一層古き刑場で五輪塔一臺あつたが、今はない』と述べられている。

草生津刑場跡には明治期の早い段階で畜産の施設が建ち、昭和期に前述した石油工場(一時、秋田競馬場が開設されている)、平成に入ってから商業施設がオープンした。

草生津刑場跡の場所は判明しているが、説明板や位置を示す石碑等は存在しない。

 

文献から見る草生津刑場

面影橋

草生津刑場について書かれた文献を幾つか調べたので時代順に紹介しよう。

 

農民一揆と草生津刑場

佐竹氏は農民一揆とみなして、一味三人を逮捕、久保田(秋田市)草生津刑場で処刑した。

1967年(昭和42)人物往来社 発行 日本城郭全集 第1 本館城より

本館城の章に草生津刑場の名前が出ている。本館城跡は秋田と青森の県境近くにある山城。

戦国時代。甲斐武田氏が天目山で滅んだ後、秋田へ落ち延びた残党がいた。彼らは安東氏に匿われ本館城を与えられたが、当地の運営がうまく行かず領民から反感を買うことになる。

安東氏が転封となり佐竹氏が秋田へ入ったのが1602年(慶長7)。

3年後の1605年(慶長10)、本館城の武田氏に反発した領民およそ120名が武器を携え城を襲った。結果、領主夫妻は自害、長子と重臣の殺害に成功した領民であったが、佐竹氏から農民一揆と見做され首謀者3名が草生津刑場で処されたと云う。

この話は伝承こそあれ史料が殆ど残っていないようなので、真偽は定かでないが、もしこれが真実だとすれば江戸時代の初頭には草生津刑場が存在していたことになる。

 

キリシタン弾圧と草生津刑場

院内銀山に集められていたキリシタン(家族を含む)三十二人が、寛永元年七月、『十八日、刑場は広場で近くに街道と丘があり、見物人でにぎわった。処刑後奇跡の光が、刑場の上に輝いた。それを番人も、ミナの住民もみた。刑場はミナという場所にちかいとこだった』一六三二年ローマ刊『一六二五年日本年表』ということで、火刑に処せられたが、文中のミナは、ミナトだろうから、それに近い草生津刑場と推定するのが妥当だと、秋田大学今村義孝教授は語っている。

1966年(昭和41)秋田魁新報社 発行 秋田むかしむかし 久保田城下町と庶民生活の歴史 キリシタン殉教事件より

江戸時代初期のキリシタン弾圧である。草生津刑場では2ヶ月間で96名のキリスト教徒が処刑された。当時、久保田藩の家老を務めていた梅津政景の日記に”一、御城御鐵砲にて罷出候 一、きりしたん衆三十二人火あぶり 内二十一人男十一人女 一、天気よし”とある。

勉強不足なものでキリシタンの弾圧と言えば九州地方のイメージしかなかったが、調べてみると東北地方でも結構な数の殉教者がいることに驚いた。

 

飢饉と草生津刑場

寛延元年(一七四八)は延享四年に引き続いて凶作であった。はじめは旱魃であったが盆前から急に寒くなり冷害凶作となっている。二年続きのため飢餓人が多くことに下筋はひどく五万三千人と称され、久保田の施行小屋に食を求めるもの毎日八百人余、仙北地方でも飢餓人が出て、長野村二百人余は『今日露命も続兼候体』とある。『五十年以来覚無之不作』とあるから元禄八年以来の大凶作であった。飢餓人は久保田へ久保田へと集まり沿道の路傍に斃れ伏す者が多く、久保田寺町丁内は両側に死人が横たわり、死人の埋葬には草生津刑場に大きな穴を掘り幾人となく投げ込んだ。人々は『あわれともけたたましきとも可申様無是』と記している。米価一俵十二匁四分五厘余で平年の四倍の高値であった。

1969年(昭和44)角館誌刊行会 発行 角館誌 第四巻より

飢饉の餓死者を草生津刑場に埋めたという話である。

久保田藩は4年に一度飢饉に見舞われ、その度に財政難に陥った。

この年に限らず飢饉で大勢の死者が出た場合は草生津刑場で埋葬していたのかもしれない。

 

秋田騒動と草生津刑場

御兵具頭(高四百石) 野尻忠三郎 年四十八九

自分儀佞奸ヲ以テ山方助八郎始側両役ヘ謀計ヲ示シ種々讒密ヲ構ヒ、国家之騒動相計数人為是重刑之義、偏ニ自分因ル叛逆之企仍而於草生津行断罪者也。子息内蔵同罪被仰付候。

1896年(明治29)橋本宗彦 著 秋田沿革史大成 上より

1757年(宝暦7年)に発生した秋田騒動(銀札事件)で久保田藩の野尻忠三郎とその息子、那珂忠左衛門が処刑されている。那珂の罪状は”国家騒動之端ヲ発シ叛逆ヲ企、剰関所ヲ破候ニ付”であった。

秋田騒動(銀札事件)について調べてみたが、ちょっとややこしい。財政難に陥った藩が苦肉の策で発行した銀札(藩札)を巡る派閥争いという感じだろうか。銀札の発行は大失敗に終わっている。野尻父子を含め40名程の銀札発行推進派が裁かれたとのこと。

講釈師の馬場文耕が残したとされる『秋田杉直物語』は秋田騒動をお家騒動として描いた作品である。馬場文耕は郡上一揆を題材にした『平良仮名森の雫』を世に出して小塚原刑場で処刑されてしまった。大変興味深い人物なので、心霊とは関係なしに彼について調べてみようかと思っている。

 

戊辰戦争と草生津刑場

面影橋

面影橋から1.3km程の距離にある仙台藩殉職碑。

当日、秋田古城へ赴いた後に偶然ここへ寄ったのだが、いきなり雪がちらつき始め大変困惑した。よって写真の白い斑点は雪なので『オーブが云々』とくだらないことを言わないように。

これは戊辰戦争の一環で起きた秋田戦争の発端になった事件で殉職した仙台藩士の殉職碑である。

戦後の明治三年閏十月、吉川忠安ら有志はその金子をもって、久しく草生津刑場に捨て埋めにされたままであった志茂一行の亡骸を掘り起こすと、寺内村の西来院に手厚く改葬して、供養の碑を建てた。

1981年(昭和56)叢園社 発行 吉田昭治 著 風雪期の人びと 秋田の戊辰戦争より

戊辰戦争で久保田藩は複雑な立場にあった。新政府(明治政府)から庄内藩(旧幕府側)を攻めるように指示をされたため戦いに挑むが敗北。その後奥羽越列藩同盟(旧幕府側)に調印している。内部では新政府派と旧幕府派に分かれており、外から見たら優柔不断な態度であった。

そんな中、久保田藩が奥羽越列藩同盟に反して新政府軍を受け入れたため、旧幕府側の各藩は詰問使を送ったのだが、最終的に藩主の佐竹義堯は新政府派に恭順の意を示した。

このような背景があって旧幕府派の仙台藩は同盟遵守と開戦準備を要求するために使者を送るも、新政府軍の大山綱良の指示により使者の志茂又左衛門一行(11名)が久保田藩内で誅殺されてしまった。こうして秋田を中心とする激しい戦いが始まる。

 

終わりに

面影橋

面影橋には心霊スポットの噂が流れている。理由は言わずもがな。以上。

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