数多の血吸う心霊スポット・小塚原刑場跡と首切り地蔵について

日光街道の小塚原刑場、東海道の鈴ヶ森刑場、甲州街道の大和田刑場。

これらは江戸三大処刑場と総称され過去は勿論、現在に至るまで曰く付きの場所として恐れられてきた。

鈴ヶ森刑場の記事はこちら↓

今回は荒川区南千住駅近くにある小塚原刑場跡へ赴いたので紹介しよう。

グロテスクな表現、お墓の写真が掲載されていますので苦手な方はブラウザバックをおすすめする。

 

小塚原刑場跡へのアクセス

JR南千住駅西口を出て左に進むと道路対面に小塚原回向院が見える。

回向院から更に左に進み高架下を過ぎると首切り地蔵と小塚原刑場跡に到着する。

 

小塚原刑場跡について

延命寺

小塚原刑場は『こづかっぱらけいじょう』もしくは『こづかはらじょう』と読む。

現在、刑場跡地には浄土宗の豊国山延命寺があり、延命寺はかつて小塚原回向院の一部であったが鉄道敷設により分断された。

1651年(慶安4年)に創設。幅108m、奥行54m、約1800坪の仕置き場(処刑場)。

小塚原刑場では鈴ヶ森刑場と同様に磔刑、火刑、獄門(斬首後晒し首)などの重罪者の処刑場として運営されていた。

当時は見せしめの意味で処刑の後、野ざらしの状態で遺体を放置してたため動物が群がりバラバラに食い散らかし、夏場には蛆虫が湧き蠢き、恐ろしいほどの悪臭を発していたと云う。

いちのまる
いちのまる

地獄にいるのでは?と錯覚してしまうほどの酷さだったとのこと。

当時、刑死者の供養は禁じられていたそうですが、見るに見かねた僧侶が秘かに無縁仏を埋葬し刑場の隣接地に弔いのお堂を建てた。

これが小塚原回向院の始まりと伝わる。

 

首切り地蔵

首切り地蔵

首切り地蔵として名を馳せているが、正式名称は延命地蔵と云う。

れい
れい

『殺すのか?生かすのか?』どっちなんだよって感じ。

元処刑場だったため首切りの名を冠するようになってしまったのであろう。

延命地蔵は刑死者供養を目的として1741年(寛保元年)に建立された。

 

小塚原回向院にある歴史著名人のお墓

小塚原回向院

小塚原回向院の宗派は浄土宗。

延命寺説明と被るが、1667年(寛文7年)に両国回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)が町奉行に願い出て常行堂を建立したのが始まり。

ゆう
ゆう

しっかりと供養の許可を得ていたみたいですね。
いくら決め事とは雖も、悪い空気が流れているのはお偉いさんも分かりますからね。

ここでは小塚原刑場で刑死した歴史上の人物の墓を見学することが出来る。

 

相馬大作の墓

相馬大作の墓

相馬大作は盛岡藩(岩手県)生まれ。

本名は『下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)』。

弘前藩主『津軽寧親』の暗殺計画を密告され逃亡、後に捕縛され小塚原刑場で獄門となった。

盛岡藩南部家に臣従していた弘前藩津軽家が南部家よりも勢力を伸ばしてきたことに憤り、侮辱を感じて犯行に及んだと云う。

 

鼠小僧と高橋お伝の墓

鼠小僧と高橋お伝の墓

・一番左が鼠小僧次郎吉の墓。

鼠小僧は江戸後期に大名屋敷を狙った大泥棒。
武家を侮辱したため見せしめで市中引き回し、獄門という殺人や放火罪に匹敵する罰を受けた。
『盗んだ金が殆ど見つからなかったことから、庶民に分け与えているのでは?』という噂が巷で広がり後世まで伝説が受け継がれた。
現在では『博打と女につぎ込んだから一文無しだった。』が定説になっているとのこと。

・右から二番目が高橋お伝の墓。

高橋お伝が群馬県出身(私の生まれ故郷)だということに驚いた。
罪状は強盗殺人。
『打ち首された最後の女囚』としてよく語られるが実は違うらしい。
1879年(明治12)、市ヶ谷監獄で処されている。
この時期に小塚原刑場は閉じられた。

・握りこぶしの腕の墓は『腕の喜三郎』の墓。

江戸時代の侠客。
何故、腕の墓石なのか?
こんなエピソードがある。
ある時、喜三郎は街で喧嘩をしていた。
相手をボコボコにしたものの、腕を斬られぶら下がっている状態にあった。
帰途に着くと子分に向かって『腕がみっともないから切り落としてくれ!』と言い放ちノコギリで切断させたと云う。
因みに腕の喜三郎は処刑されていない。
小塚原回向院に墓がある理由は不明。

 

吉田松陰の墓

吉田松陰の墓

吉田松陰は伝馬町牢屋敷で打ち首に処され小塚原に埋葬されている。

後に高杉晋作らが身体を取り戻し世田谷に改葬。

 

頼三樹三郎の墓

頼三樹三郎の墓

頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の墓。

幕末の儒学者。

安政の大獄で捉えられ斬首刑となった。

 

橋本左内の墓

橋本左内の墓

橋本左内は幕末に活躍した福井藩士である。

安政の大獄で謹慎処分になり、その後処刑されている。

 

磯部浅一と妻 登美子の墓

磯部 浅一の墓

1936年(昭和11)に起きたクーデター事件、通称2.26事件の首謀者。

クーデターは失敗に終わり指揮官は捕縛され銃殺刑に。

尊敬していた吉田松陰の近くで眠りたいという希望から回向院に埋葬された。

 

吉展地蔵尊

吉展地蔵尊

1963年(昭和38)に発生した誘拐事件『吉展ちゃん事件』に纏わる地蔵尊。

この世の不条理を象徴する事件である。

 

終わりに

刑場が心霊スポットとして扱われるのは仕方のないことなのかもしれない。

駅前に位置するため日中は人の往来が激しく不気味な感じは一切なかった。

いちのまる
いちのまる

夜は怖いだろうけどね…。

『江戸の刑罰 拷問大全』は江戸の仕置き場事情を垣間見ることが出来る。

小塚原(回向院)や鼠小僧の名前が登場するので、興味のある方はご覧あれ!

コメント

  1. さいち より:

    はじめまして。
    所用があって、震災直後から数年間、仙台〜南千住を繰り返し行き来していました者です。
    当時は、こづかっぱらのことも回向院のことも幕末や左内先生のことも、ほんとうに
    歴史自体に無頓着でした。
    「あ、こんな所にお寺があるんだなぁ〜」などと思いながら、回向院のすぐ脇の線路沿いの
    道を歩いていたり…。ほんとお恥ずかしい…。

    それはそうと、松陰先生のお墓の画像(福井の左内公園の左内先生のにも同じことが
    言えるんですけど…)、回向院のものと松陰神社のものを見比べると、回向院の方のが
    なんとなく画像から伝わってくる感じがすごくとても「軽い」感じがして面白いな、
    と思いました。ああ、墓石だけなのね。墓の下には居ないのね。うん納得…的な。
    画像から伝わってくる「重み」が違うというか…。

    機会があれば、世田谷の松陰神社に行って、画像ではなく実物で見てみたいなと思いました。
    あと、左内公園にもぜひ足を運んでみたいものです^^

    • さいち さま

      コメントありがとうございます!
      見比べてみましたが、確かに仰る通りですね。
      全然気づきませんでした。

      左内公園なんてあるのですね。福井県はちょっと遠いですが、行く機会があれば私も寄ってみようかと思います。
      あと、山口県の松陰神社も気になります。

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