吉田松陰最期の地、伝馬町牢屋敷跡へ

伝馬町牢屋敷跡は江戸時代に存在した刑場&牢獄跡である。

鈴ヶ森刑場や小塚原刑場と同様に、数多の罪人の地を吸ったこの地は曰く付きの場所として名を馳せている。

今回、現地に訪問して来たので、牢屋敷跡の風景と共に歴史を紹介したいと思う。

それでは、ご覧あれ!

処刑場についてなので一部グロテスクな表現ある。
苦手な方はブラウザバックをおすすめする。

 

江戸プリズン 伝馬町牢屋敷

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伝馬町牢屋敷は江戸時代前半から1875年(明治8)まで存在した牢獄兼、処刑場である。

現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、旧十思小学校、十思公園を含む一帯が伝馬町牢屋敷であった。

約2.4mの塀で囲まれ、身分の高い武士や僧侶に揚座敷、一般武士や僧侶、女性は揚屋(女性は女牢とも呼ばれる)、平民は大牢、百姓には百姓牢といった具合に身分によって牢舎が分かれていた。

大牢は一般囚人と凶悪な囚人が入り乱れた状態だったので、治安が非常に悪かったと云う。

当初は百姓も大牢に入れられていたが、場慣れした囚人に虐待されたり、”郷に入っては郷に従え”という言葉がある通り、既存の囚人に影響され極悪人になってしまう百姓が現れたため大牢の他に百姓牢が設けられた。

 

江戸伝馬町処刑場跡

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伝馬町牢屋敷は犯罪者が判決を待つ、今でいう拘置所であった。

いちのまる
いちのまる

昔の裁判なんて町奉行の気分次第でしょう?

と思っていたが、それなりにしっかりとした裁判が行われていたようである。

拷問する=ダメ町奉行という風潮があったらしい。

処刑も泰平の世にそぐわないという事で、出来れば行いたくなかったと伝わっている。

 

伝馬町牢屋敷での処刑

伝馬町牢屋敷での処刑は主に斬首が行われ、また身分の低い武士が切腹する場所でもあった。

斬首や切腹以外のその他の極刑は↓で行われた。

 

首の皮一枚と土壇場の語源

ところで斬首から生まれた有名な言葉を御存知であろうか?

首の皮一枚と土壇場は処刑場が発端の言葉である。

首の皮一枚は斬首の際、首の損傷を防ぐため、また血飛沫が周囲に飛び散らないように配慮した執行者の神業が由来。

『ギリギリ大丈夫だった』的な意味で使用されている。

土壇場は斬首の際に切りやすいように作った土の壇(盛り上げたところ)が語源。

進退きわまった状況のことをいいます。

 

武士の名誉を保つための処刑・切腹

私は己れの魂が宿るところを開いて、その状態をお見せする。それが汚れているか、潔白であるか、とくと貴方の目で確かめよ

新渡戸稲造 武士道より

切腹は”腹部には魂が宿っている”という信仰から生まれた武士の処刑法であった。

初期は介錯人が付かず腹を掻っ捌いたあと悶え苦しみながら死んだようだが、江戸時代中期には切腹の作法が確立され介錯人が付き添うようになった。

一文字が一般的であるけれども、自らの死に様を見せつけるかのように十字切りや三の字切りをする武士も存在した。

また反対に死の覚悟が定めらず服毒で処された者もいた。

 

吉田松陰最期の地

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身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

これは幕末に活躍した吉田松陰の辞世の句の碑。

安政の大獄(1858~1859)によって吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎などの尊王攘夷派の志士たちが伝馬町処刑場にて首を刎ねられた。

 

時の鐘と死の鐘

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従来通り時刻を知らせる鐘として突かれていたが、死刑執行の際にも鳴らされていたと云う。

鳴るはずの鐘が鳴らないときがあったようで、死刑囚は『今日は大丈夫だった…。』と安堵したことから一名情けの鐘、或いは慈悲の鐘とも呼ばれていた。

 

終わりに

仕置き場についての記事を書くといつも陰鬱な気分に苛まれる。

死や破滅を連想される場所なので、心霊スポットの噂が流れるのも理解出来なくはない。

過去にこのような凄惨な処刑が行われてきた、また世界を見渡せば未だに実行されていることを知識として持っておくべきだと、私は思う。

江戸時代の刑罰や拷問、犯罪に興味がある方は上の本をおすすめする。

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