東海道の鈴ヶ森刑場、甲州街道の大和田刑場、日光街道の小塚原刑場。
これら三ヶ所を江戸三大処刑場と呼び、数多の命を奪う場所として恐れられてきた。
処刑なんて他人事のように思えるが、同じ人間が磔刑で串刺し、燃やし燻され、水に沈められたりしていたりするのを想像すると戦慄する。
世界を見渡せば未だそのようなことが行われている事実を直視すると、いつか自分の身に降りかかる可能性も無きにしも非ずかな…。
東京都史蹟・鈴ヶ森刑場遺跡について
鈴ヶ森刑場は1651年(慶安4)に設けられ、1871年(明治4)に閉鎖された仕置場(処刑場)である。
国道15号線沿いの大経寺境内に小さな公園として残されている。
多量の罪人が無残な最期を迎えた場所故に、心霊スポットとして名を馳せている。
詳細な記録は現存していないのだが10万人、或いは20万人が処刑されたと云う。
江戸の入口であったこの辺りは、浪人(浮浪者)が集い大変治安が悪かったようで、治安を守るため幕府は警告、見せしめの意味を込めてここに仕置場を設置した。
当然、当時はDNA鑑定や指紋捜査など無かったので、
なんて感じの冤罪も多かったのであろう。
首洗の井戸
ここで切断された首を洗ったり、血が付いた刀や槍を洗っていたとのこと。
火炙台と磔台
この火炙台と磔台は同刑場内の別の所から移動してきたもの。
・火炙り(火刑)
主に放火犯に対して執行されていた。
火には火をということだろう。
焼かれて死ぬというより、燻されたことによる窒息死、またはショック死が多かった。
市中引き回しの後、柱に縛り付けられる。
足元に薪を積み、身体周りを藁で覆う。
準備が整ったら、罪人に罪状の最終確認をし着火。
火を強くするため扇いで風を送り、絶命確認後、止め焼きを行う。
(男性は鼻と陰嚢、女性は鼻と乳房を焼く謎の儀式)
死体は三日三晩晒され、刑場の隅に捨てられた。
・磔刑
準備が整ったら、罪人に罪状を最終確認。
死刑執行人が罪人の前で槍を交叉させる。
これを見せ槍と云う。
まずは右脇腹からぐさりと左肩まで突き抜く。
次は左腹からぐさり、右肩まで突き抜く。
(この段階で多くは絶命する。)
これを数十回繰り返す。
それはもう執拗に。
そして、喉を突き刺し終了。
これを止めの槍と云う。
死体は三日三晩晒され、刑場の隅に捨てられる。
次は鈴ヶ森刑場で処刑されたとされる人物について紹介しよう。
悲恋物語 八百屋お七
八百屋お七は鈴ヶ森刑場で火刑に処された16歳の少女。
悲恋物語の題材として江戸時代に文芸作品、演劇や歌舞伎などで取り上げられた人物である。
ざっくりと説明すると。
建て直すまで近くの寺のお世話になったのだが、お七は同じ年齢の少年と両想いになる。
しかし、八百屋の建て直しは意外と早く終わり二人は離れ離れになってしまう。
お互い『会いたいなぁ』と悶々とする日々を…。
『そうだ!また火事が起きれば会えるんじゃ?』放火を思いつき実行。
願いは虚しく捕縛され、市中引き回しの後、火刑に処されてしまった。
その頃、少年は身体を壊していてお七が処されたことを後日知り、自害しようとしたが和尚に止められ諭される。
少年は出家し生涯お七を弔い、やがて偉大な僧になりましたとさ。
お七のモデルは実在していたようだけれど、物語は創作だそうだ。
慶安の変 丸橋忠弥
丸橋忠弥は江戸時代前半に起きた慶安の変に参加し、鈴ヶ森刑場にて磔刑に処された人物。
その下で働いていた家臣たちは行き場所を無くし浪人になってしまう。
軍学者の由井正雪が塾を開くと、次第に浪人達が集まり始める。
徳川幕府の政策に不信感を覚えた由井正雪は、三代将軍家光が死去すると丸橋忠弥等の浪人を集め、浪人救済を大義に幕府転覆を計画。
これが慶安の変。
しかし反乱を起こす前に密告され由井正雪は追い詰められ自害、そして丸橋忠弥は処刑された。
幕府転覆は叶わなかったが、この事件により幕府は考え改め浪人救済の処置を行い、時代は由井正雪たちが思い描いた文治政治へと移行していった。
終わりに
刑場系の心霊スポットは調べていると内容が衝撃的過ぎて心が消耗します。
処刑や刑罰、拷問に興味がある方は『江戸の刑罰 拷問大全』をおすすめする。
凄惨過ぎて鬱々とした気分になってしまう内容だが、時には『こういう世界もあった(ある)のだな…。』と学ぶのも無益ではないと思う。
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