東海道の鈴ヶ森刑場、甲州街道の大和田刑場、日光街道の小塚原刑場。
これら三箇所を江戸三大処刑場と呼び、数多の命を奪う場所として怖れられてきました。
処刑されるなんて他人事のように思えますが、同じ人間が磔刑で串刺しにされたり、足元から徐々に燃やされたり、水牢に入れられたりしていたなんて想像すると恐怖に慄きます。
世界を見渡せばまだそれに近いことが行われています。自分の身に降りかかる可能性も無きにしも非ずかな…。
怖れたところで無意味ですけどね。
鈴ヶ森刑場遺跡の場所
第一京浜(国道15号線)を品川方面から進むと左側にあります。
周辺に有料駐車場はありますが、狭いので停められないかもしれません。
京急本線の大森海岸駅から徒歩10分くらいなので電車で行くことをおすすめします。
東京都史蹟・鈴ヶ森刑場遺跡について
鈴ヶ森刑場は1651年(慶安4年)に設けられ1871年(明治4年)に閉鎖された仕置場(処刑場)です。現在は国道15号線沿いの大経寺境内に小さな公園のような形で残っています。
多くの罪人が無残な最期を迎えた場所なので、心霊スポットとして知られています。
詳細な記録は現存していないのですが10万人、或いは20万人の罪人が処刑されたと言われています。
江戸の入口であったこの辺りには、多くの浪人(浮浪者)が集まり治安が悪かったそうです。治安を守るため幕府は警告、見せしめの意味を込めてここに仕置場を設置しました。
昔はDNA鑑定や指紋捜査など無かったので
なんて感じの冤罪も多かったことでしょう。
首洗の井戸
ここで切断された首を洗ったり、血が付いた刀や槍を洗っていたようです。
中を覗いてみましたが、深さはそれほどなかったです。
火炙台と磔台
この火炙台と磔台は刑場内の別の所から移動してきたものです。
・火炙り(火刑)
市中引き回しの後、柱に縛り付けられる。足元に薪を積み、身体周りを藁で覆う。準備が整ったら、罪人で間違いないかと最終確認。着火。火を強くするため扇いで風を送る。
絶命確認後、止め焼き。(男性は鼻と陰嚢、女性は鼻と乳房を焼く謎の儀式)
死体は三日三晩晒され、刑場の隅に捨てられる。
・磔刑
死刑執行人が罪人の前で槍を交叉させる。
これが『見せ槍』。まずは右脇腹からぐさり。左肩に突き抜けます。次は左腹からぐさり。右肩に突き抜けます。(この段階で多くは絶命します。)
これを数十回繰り返す。それはもう執拗に。最期に喉を突き刺し終了。これを『止めの槍』という。死体は三日三晩晒され、刑場の隅に捨てられる。
次は鈴ヶ森刑場で処刑されたとされる人物について紹介します。
悲恋物語 八百屋お七
八百屋お七は鈴ヶ森刑場で火刑に処された16歳の少女です。悲恋物語として江戸時代に文芸作品、演劇や歌舞伎などで取り上げられました。
ざっくりと説明すると。
お互い『会いたいなぁ』と悶々とする。お七は『そうだ!また火事が起きれば会えるんじゃ?』と考え放火。見つかり逮捕。市中引き回しの後、火刑。
その頃少年は身体を壊していてお七が処されたことを後日知り、自害しようとしたが和尚に止められ諭される。少年は出家し生涯お七を弔う。やがて偉大な僧になりましたとさ。
お七って現代でいうサイコパスか?!
お七のモデルは実在していたようですが、物語は創作らしいです。
慶安の変 丸橋忠弥
丸橋忠弥は江戸時代前半に起きた慶安の変に参加し、鈴ヶ森刑場にて磔刑に処された人物です。
徳川幕府の政策に不信感を覚えた由井正雪は三代将軍家光が死去すると丸橋忠弥等の浪人を集め浪人救済を大義に幕府転覆を計画します。これが慶安の変。
しかし事を起こす前に密告され由井正雪は取り囲まれ自害、丸橋忠弥は処刑。
幕府転覆は叶いませんでしたが、この事件により幕府は考え改め浪人救済の処置を行い時代は由井正雪たちが想像した文治政治へと移行していきます。
終わりに
なんか気分が沈んで疲れました…。
処刑や刑罰、拷問に興味がある方は上の『江戸の刑罰 拷問大全』をおすすめします。
鬱々としてしまう内容ですが『こういう世界もあるんだな。』と実感出来ます。
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