常さえも岩波高く漲りていと早き川なれは五月雨の頃ははたひ(二十日)も渡りとゞまりて公のせいしきは矢箭を射て其用を助け或はやめるものゝくすしの便なとそのうきことはたとふるに物なし
さればいにし五月雨の頃せちなることに渡るとて波におほれ巌にとりつきて助けよと叫ぶ声にあたりの人々川岸にはつと集りぬれども共にせんすべなく水笠増るにつけて巌沈みて終には溺れてしにけり見殺しける人々のこゝろいか計り悲しかりけん
霊台橋が架かる前、江戸時代の文政年間(1818~1831年)の様子を表しています。
普段でも岩波が高く漲っていて流れの速い川だから、五月雨の頃は20日も渡れず公式の重要な手紙は弓矢を討って対岸に連絡し、或いは病める者の医者・薬の便りなどが(届けられず)その辛さは例えるものがない。
そうして五月雨が過ぎた頃、無理やり渡ろうとした者が波に溺れ岩にしがみつき『助けよ!』と叫ぶ声に辺りの人々は川岸に集まるけれど、どうすることも出来なく水笠が増えるにつれ岩が沈んで最後は溺れ死んでしまった。
見殺しにした人々の心はどんなに悲しかったか。
地元のお偉いさんは住民の困難を少しでも解消してあげようと木橋を架けてあげました。
しかし……。
川が荒れるたび何度も橋は流されてしまいます。こうして霊台橋の架橋計画が進められて行くのです。
弘化2年(1845)、惣庄屋に就任した篠原善兵衛が石橋の架橋を計画します。
施工者は大工棟梁の伴七、種山村の石工である卯助、その兄弟の宇市、丈八。そして地元の民衆です。
工事は弘化3年(1846)に開始され6~7ヶ月後、翌年の弘化4年(1847)に落成、渡初が行われました。梅雨や台風を避けるためかなり急ピッチで作業が行われたそうです。
霊台橋の由来は孔子が編纂したとされる『詩経』にあります。
經始靈臺 經之營之 庶民攻之 不日成之 經始勿亟 庶民子來
王在靈囿 麀鹿攸伏 麀鹿濯濯 白鳥翯翯 王在靈沼 於牣魚躍
虡業維樅 賁鼓維鏞 於論鼓鍾 於樂辟雍
於論鼓鍾 於樂辟雍 鼉鼓逢逢 矇瞍奏公
詩経 大雅 文王之什〈霊台〉より
申し訳ございませんが、私にこれを訳す能力はありません。殷後期に活躍し周の始祖となった文王を称える詩です。
『文王、めっちゃ尊敬出来る人だから俺たち頑張って霊台を造るぜ!』って感じだと思います。
霊台をgoogle翻訳で入力すると『プラットホーム』と変換されます。プラットホームは基盤とか足場、台地の意です。

日本でいう櫓みたいなものを想像しました。
終わりに
施工者の種山石工の一人である丈八は霊台橋や通潤橋工事の功績で苗字帯刀を許され橋本勘五郎と名を改めています。
明治時代に入ると政府から呼び出され、浅草橋や京橋、他にも多くの橋梁の施工に関わりました。
昭和41年(1966)に新霊台橋が架けられると役目を終えた霊台橋は歩行者用の橋として整備され、翌年には国の重要文化財指定を受け、現在に至ります。
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