私は学生の頃から親鸞聖人の弟子・唯円が書いたとされる歎異抄という仏教書を好んで読んでいます。
この書物には唯円が生存時の親鸞聖人と問答したときのことが綴られています。悪人正機説が解説されていることで有名ですね。
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
歎異抄 第十三条抜粋
超訳すると『どんな人でもそうするべき状況に置かれれば、どんなことでもしてしまうのだよ……』といったところでしょうか。
当たり前のことをいっているようですが、悪人が開き直りで使えてしまうちょっと危険で難しい言葉です。私は自分と他者にこの言葉を当てはめて客観視することで心の平安を保つことができるようになりました。
さて、今回は親鸞聖人が上陸したと伝わる地へ行ってきました。親鸞聖人について、また彼が新潟にたどり着いた理由を綴っていきます。
それでは参りましょう!
場所は↑です。
親鸞聖人ついて
親鸞聖人は1173年(承安3)に京都で生を受けます。この時代は仏教用語で末法と呼ばれる終末論が蔓延っていました。末法とは釈迦の教えが忘れ去られ僧侶の堕落が起こり荒れに荒れた時期のことを指します。
また仏教界だけではなく俗世も戦や大飢饉によって酷い有様でした。このような悲惨な時代は親鸞聖人にも耐えがたく思想に大きな影響を与えたといわれています。1181年(治承5)の春、9歳になった親鸞聖人は出家します。
そして修行のため天台宗の僧侶として比叡山に登ります。真理を理解するため不断念仏や精神統一などの修行を熱心に努めます。しかし悟りを啓くどころかどれだけ集中しても雑念が現れて心の弱さを見出すばかりでした。
1201年(建仁1)、親鸞聖人29歳の時に自力での修行をあきらめ比叡山から下りてしまいます。それから日本に仏教を広めた聖徳太子に自分の進むべき道を教えてもらおうと京都の六角堂で100日参籠を行います。そして95日目の明け方に夢の中で観音様がこういったそうです。
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
『因縁によって女犯の業があったとしても、私が女の姿になって交わりましょう。そして一生をかけてあなたを気高い人にしましょう。死の際には極楽へと導いてあげましょう』といった意味でしょうか。
仏教では禁忌の欲望は『色』。常々親鸞聖人は色欲から生まれた人間がどうして色欲から逃れられようかと思い悩んでいたそうです。この女犯の夢告を聞き吹っ切れた親鸞聖人は後に妻帯することになります。
また観音様は『法然に会え!』と告げ、これに従います。永遠の師匠・法然上人との出会いはこのようにして訪れました。
夢告に従い早々と法然上人の草庵へ訪れた親鸞聖人はその教えを聞き感動し入門します。ご存じの通り法然上人は浄土宗の開祖です。
ひたすらしんどい修行して悟りを得ようとする難行道は『私の力では無理だ!』と感じた親鸞聖人にとって『私(阿弥陀仏)の名を念じればもれなく救ってしんぜよう』という易行道である専修念仏の教えにとてつもない衝撃を受けました。
始めは一介の弟子だった親鸞聖人ですが、よく務め33歳のとき一部の弟子だけに認められた法然上人の著書の写書が許されるなど弟子たちの中でも特別かわいがられた存在になりました。
専修念仏の教えはわかりやすく荒廃した日本国民の心に響きました。出る杭は叩かれるというように法然上人の教団は大きくなり世に影響を与えすぎることから他の仏教団体からの批判攻撃を浴び非常に辛い立場に置かれてしまいます。
そしてトドメの事件は1206年(建永1)に起こります。後鳥羽上皇が寵愛していた松虫姫、鈴虫姫が法然の教えと弟子の安楽房と住蓮房に魅かれ無断で出家してしまいます。なんと二人の姫は上皇不在の際に安楽房を御所内に招き入れそのまま宿泊させてしまいます。
これに後鳥羽上皇は激怒。
安楽房と住蓮房、その他2名は処刑。それから他の仏教団体の訴えに応じ専修念仏の停止を決定。もちろん教団主の法然上人と高弟子の親鸞聖人にも罰が下されます。親鸞聖人35歳のときのことで、これを承元の法難または建永の法難といいます。
親鸞聖人上陸の地
法然上人は高知県、親鸞聖人はここ新潟県へ流罪となり僧籍を剥奪。これが二人の今生の別れとなってしまいます。そして流れ着いた親鸞聖人は上の写真の岸から新潟へ上陸したといわれています。
死罪に次ぐ罰、流罪に処された親鸞聖人は荒れ果てた新潟で自給自足の生活を強いられました。しかも監視人付きです。しかし『法然上人の教えを広めるために私はここに導かれた!』とプラス思考な親鸞聖人の周りには人々が集まりはじめます。
監視の目も緩やかになり人々に専修念仏の教えを施し自由もかなり増えてきました。この時期に恵信尼と結婚し幾人かの子を授かりました。
1211年(建暦1)に罪が許され1214年(建保2)42歳のときに新潟から布教活動のため長野経由で茨城に入りました。茨城で大著の教行信証を草稿。関東に入って20年ほど布教に努め、63歳で京都へ帰省。
京都へ戻ろうとした理由は定かになっていません。晩年はひたすら布教活動や著作に勤しみます。そして1262年(弘長2)満89歳で人生の幕を閉じます。
終わりに
かなり重要なことですが親鸞聖人は法然上人の教えを布教したのであり浄土真宗を布教したわけではありません。没後に開祖として持ち上げられただけです。そして流罪に処された時から非僧非俗を貫き通しています。
『僧侶にもなれなかったし、俗人にもなれなかった』のです。
浄土真宗は戦国時代に暴れまくるし、現在もお家騒動で喧嘩するしなかなかひどい有様。これは親鸞聖人の教えのせいだったのでしょうか。私はそうは思いません。
親鸞聖人が救いたかったのは未来の人間ではなく、目の前で絶望に打ちひしがれていた人々だったはずです。
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