死屍累々の心霊スポット田原坂公園?!西南戦争での激戦・田原坂の戦いについて【熊本の旅】

1877年(明治10年)2月14日に西郷隆盛は閲兵を行い17日に鹿児島から熊本へ進軍しました。これが日本国内最大の内戦『西南戦争』の始まりです。そして表題の田原坂は薩軍と新政府軍が死闘の争いを繰り広げた場所。政府軍の重要拠点だった熊本城を落としきれなかった薩軍は長囲策を採用し徐々に熊本城を崩していこうとします。

そして新政府軍は熊本城救出のため進軍しやすい田原坂の突破を目指します。薩軍はこれを予想し田原坂で新政府軍を待ち構えます。こうして田原坂の戦いが開かれることになりました。

 

田原坂公園について

田原坂公園
田原坂公園はその凄惨な歴史からよく心霊スポットとして紹介されています。なんせ死傷者が両軍合わせて5000人以上ですからね。きっとこの辺りは死屍累々だったのでしょう。私は霊的なものを全く信じていないので何とも思いませんでしたが、歴史を知ったら怖いと感じる方もいるかもしれませんね。

 

田原坂公園銃痕が残る土蔵(レプリカ)。

 

田原坂公園これが当時の写真。ほんとに壮絶な銃撃戦だったそうで、田原坂ではかちあい弾がよく発掘されました。これは銃弾と銃弾どうしがぶつかり合って互いがめり込んで出来た銃弾のことです。

 

田原坂公園

 

田原坂公園

 

田原坂公園幕末に活躍した人物や後に日本の中枢で活躍する人物が多くいます。児玉源太郎の若かりし頃の写真を始めてみましたが『いい歳の取り方したのね!』と思いました。

あとここには紹介されていませんが日露戦争で活躍した大山巌や乃木希典も新政府側で西南戦争に参加しています。西郷隆盛の親戚だった大山巌は西郷さんと戦ってしまったことを悔やみ二度と鹿児島へ帰らなかったそうです。

 

田原坂公園熊本市田原坂西南戦争資料館。ここでは西南戦争、それに至るまでの経過などを学ぶことができます。とても分かりやすく経緯を勉強できますので一度訪れることをおすすめします。

 

田原坂公園慰霊碑だったかな…?

この日は自衛隊の方々が研修に来ていて若い隊員がぞろぞろと見学していました。良くも悪くも日本のためを思って戦った先人たちの心を聴きに来たのでしょうか。戦争というだけで嫌悪感を抱く人が多いですが過去に彼らが何のために何を思って戦ったのか振り返ることは有意義だと私は思っています。

根っからの戦闘狂以外は我々と同じ感性で『戦争なんてしたくなかった、でもそうするしかなかった。』と考えていたと思うんです。いつの日か彼らと似たような境遇になったら『きっと同じことをするんだろうな。』と切ない気持ちになります。戦争反対を叫ぶこともとっても大切なことだと思いますけどね!

 

田原坂公園

 

田原坂公園田原坂の風景です。新政府軍は優れた兵隊&地の利を生かした薩軍に1877年(明治10年)3月1日から18日まで苦しめられ受け思うように進軍できませんでした。19日に休戦。そして20日に総攻撃を仕掛ける新政府軍。

この日は豪雨で田原坂は霧に包まれていました。このとき新政府軍は攻撃、守備双方兼ね備えた三段構えの陣で突撃。また南の吉次峠の薩軍を決死の陽動で田原坂へ救援できないようしました。かつてない猛撃と豪雨に薩軍は防戦一方となり東へ退却。

 

田原坂公園『田原坂』の歌に出てくる美少年の像。

雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年

田原坂の戦いは押し切りで新政府軍の勝利。その後、長崎から熊本の南に入った新政府軍に背後から詰め寄られ薩軍は熊本鎮台(熊本城)を解放。そのまま薩軍は追いやられ鹿児島へ敗走していくわけですが…それは各古戦場に訪れた時に書きたいと思います。

 

終わりに

戦争系の記事は書くのが難しいです…。細かく時系列で追っていけばわかりやすいのでしょうが、それだと書いていてつまらない。そして幕末、明治期はあまり知識がないので人物や場所などがいまいちわからず非常にまとめにくいのです。

九州中にある様々な史跡に訪れて点になっている知識を線にしていけば幾分書きやすくなるのかな?適当に頑張りますので応援よろしくお願いします。

当ブログ内の心霊スポットランキングを作成しましたので興味がある方はご観覧下さい。なおこの記事は適宜更新いたします↓

旅のまとめ【心霊スポットランキングベスト10 編】 

おしまい!



田原坂公園

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いちちと申します。 休日の殆どを一人旅に費やしています。いつか流浪の民になって日本中を周って過ごしたい。歴史、B級スポット、心霊スポットのネタが多めな旅行記ブログです。 コメント待ってるよー!