西南戦争の古戦場・吉次峠について。心霊スポットと言われているが…。【熊本の旅】

吉次峠

熊本にある吉次峠は心霊スポットとして知られています。(”きちじ”と読みます)

理由はここが古戦場だからです。

1877年(明治10年)、西郷隆盛が挙兵し西南戦争が起きます。西郷軍は鹿児島から北上し熊本城を落城させるため包囲しますが思うようにいきません。

籠城する熊本城に明治政府は救援を試みます。

そして、西郷軍は博多~熊本間にある山鹿、田原坂や吉次峠の防御を固め官軍を迎え撃ちます。

西南戦争の中でも特に激しい戦いが行われたことで有名な田原坂については↓

田原坂公園

死屍累々の心霊スポット・田原坂公園?!西南戦争で起きた苛烈な争い、田原坂の戦いについて【熊本の旅】

2016-12-08

 

吉次峠と田原坂の場所

吉次峠

写真は吉次峠(半高山)から眺める田原坂方面です。

田原坂から約4km南の位置に吉次峠はあります。下の地図の青いマークが田原坂、赤いマークが吉次峠です。

付近には西南戦争に関するスポットが点在しています。

 

吉次峠と篠原国幹

吉次峠

田原坂公園『弾痕の家』内の資料館より

田原坂、吉次峠の西郷軍守将は第1番大隊長・篠原国幹です。

吉次峠の戦いの凄惨さが河東祐五郎の丁丑弾雨日記に書かれています。

二日、吉次峠に応援。

三日、彼我攻防戦激しかりしが、敵潰走、我は夜半多尾に還すも溝には鮮血湛え、畠には死屍横たわる。悲惨なる嘗て見ざる所。

種子島人列伝 河東祐五郎(丁丑弾雨日記)より

必死の抵抗を受けた官軍はここを恐れて『地獄峠』と呼んだそうです。

西郷軍の被害も大きく、この戦いで篠原国幹は戦死してしまいます。

外套をひるがえし、銀装刀を振るって陣頭にあった篠原は、顔を知っていた江田国通少佐の指示を受けた狙撃手によって射殺された。

小川原正道 著『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』より

 

西郷軍の後退

吉次峠

官軍は吉次峠の攻略を一旦諦め、田原坂に戦力を集中。

早朝5時、雨が降り、霧が立ち込めるなか官軍は総攻撃を仕掛けます。西郷軍は突然の攻撃に成す術もなく敗走。田原坂は陥落しました。

吉次峠も抵抗虚しく田原坂陥落の11日後に攻略されています。

官軍の南下を止めるため東西に陣を張り抵抗する西郷軍ですが、徐々に追い詰められていきます。

その後についてはまた別の記事で…。

 

終わりに

吉次峠

凄惨な戦いが起きた古戦場を心霊スポットとしてしまう気持ちは理解できます。

わたしは『なぜ、ここは心霊スポットとされているのか?』とまず考えます。

吉次峠ならばすぐに答えが見つかります。多くの方々がここで壮絶な最後を遂げているからです。

では、何のために彼らは戦ったのか?

個々によって違うでしょうが、自身の為、家族の為、子孫の為、或いは日本の将来を想ってだったのかもしれません。

仮に霊がいるとして吉次峠に兵隊の霊が出たとしましょう。

わたしは恐れる理由がないと思います。だって彼らは英霊です。

いちち
ちなみに戦争を賛美する気は全くありません!

おしまい!



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