西南戦争の古戦場・吉次峠について。心霊スポットと言われているが…。

吉次峠

熊本にある吉次峠は心霊スポットとして知られている。『きちじ』と読む。

理由はここが古戦場だからである。

1877年(明治10)、西南戦争が発生。

西郷隆盛らは鹿児島から北上し官軍が守る熊本城を目指した。

熊本城に辿り着いた西郷軍は城を包囲。熊本籠城兵を侮っていたらしく容易に落とせると考えていたが、予想以上に守りは強固で攻めあぐねている間に本土から官軍の援軍が次々と参戦し始めた。

西郷軍は官軍に南下されては二進も三進も行かなくなると理解していたため、これを止めるため熊本城の包囲隊を割いて突破されてはならない要所に配置した。

その要所の一つに吉地峠がある。

 

吉次峠と田原坂の場所

吉次峠

西南戦争の中でも特に激しい戦いが行われた田原坂は吉地峠から3~4km離れたこれまた要所であった。

写真は吉次峠(半高山)から眺める田原坂方面。

戦場だったとは思えない長閑な農村風景が広がっている。

 

吉次峠と篠原国幹

吉次峠

田原坂公園『弾痕の家』内の資料館より

田原坂、吉次峠の西郷軍守将は第1番大隊長・篠原国幹であった。

吉次峠の戦いの凄惨さが河東祐五郎の丁丑弾雨日記に残されている。

二日、吉次峠に応援。

三日、彼我攻防戦激しかりしが、敵潰走、我は夜半多尾に還すも溝には鮮血湛え、畠には死屍横たわる。悲惨なる嘗て見ざる所。

種子島人列伝 河東祐五郎(丁丑弾雨日記)より

必死の抵抗を受けた官軍はここを恐れて『地獄峠』と呼んだそうだ。

守る西郷軍の被害も大きく、この戦いで篠原国幹は戦死してしまった。

外套をひるがえし、銀装刀を振るって陣頭にあった篠原は、顔を知っていた江田国通少佐の指示を受けた狙撃手によって射殺された。

小川原正道 著『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』より

 

西郷軍の後退

吉次峠

官軍は吉次峠の攻略を一旦諦め田原坂に戦力を集中。

早朝5時、雨が降り、霧が立ち込めるなか官軍は総攻撃を仕掛ける。

西郷軍は突然の攻撃に成す術もなく敗走。田原坂は陥落した。

その後、吉次峠も抵抗虚しく田原坂陥落の11日後に攻略された。

官軍の更なる南下を防ぐため東西に陣を張り抵抗する西郷軍だったが、徐々に追い詰められていった。

その後については別の記事で紹介しようかと思う。

 

終わりに

吉次峠

凄惨な戦いが起きた古戦場に心霊スポットの噂が流れてしまうのは理解出来なくもない。

いちのまる
いちのまる

多くの方々がここで壮絶な最後を遂げた場所ですから…。
ただ私の気持ちとしては幽霊云々で話を止めて欲しく無いかな。

私たちの祖先が何を思って命を賭した戦いに挑んだのか?

個々人によって思想や思いの強さは異なっていたのであろうが、多かれ少なかれ家族、子孫、或いは日本の将来の繁栄を願って戦ったのではないだろうか?

仮に吉次峠に兵隊の幽霊が出たとしても恐れる理由はないと考える。

だって彼らは英霊なのだから。

戦争を賛美するつもりは全く無いが…。

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