大分県の佐伯市と豊後大野市を繋ぐ三国トンネル。
所謂『化けトン』で心霊スポットとして知られている。
自然災害、殺人や自殺、戦争などが起きた負の過去を持っている場合もあれば、全く何も起こっていないのにも拘らず、ただ不気味というだけで心霊スポットとして扱われている場所もあるのだが、ここはどうなのだろうか?
何やらこの辺りには血生臭い歴史があるようだ。
それでは何故、心霊スポットになってしまったのか見ていくことにしよう。
何があった三国トンネル?!
実際には三国トンネルそのもので何かが発生した訳では無く、トンネル北東に位置する三国峠に原因がある。
峠道系の心霊スポットは日本各地に存在しており、心霊の根拠としては交通事故の多さや事件に関するものだったりする。
三国峠の場合はどうだろう?
三国峠について
“三国”の名は江戸時代に峠が『岡、臼杵、佐伯』三藩、つまり3つの国の境にあったため名付けられたと云う。
古くから峠には官道が通され険しいながらも人々が往来する重要な道路であった。
標高600m程の三国峠は大変見晴らしがよく、戦争時には非常に大切な拠点になった。
国境ということも併せて、ここを抑える意味は大きかったと思える。
三国峠に関係する著名な争いは二つ。
第一の戦争・豊薩戦争
1586年から1587年に豊後国の大友氏と薩摩国の島津氏の間で起きた豊薩戦争。
この戦いは広範囲に亘って戦いが繰り広げられた。
日向路(宮崎)方面から北上してきた島津家久は、府内(大分市)を狙うため三国峠の南にあった松尾城に陣を取った。
家久は松尾城の北にある鶴賀城や戸次川で大友氏と戦っているので、ほぼ間違いなく三国峠を通っている。
ただ、三国峠で戦闘が起きたかどうかは分からない。
松尾城や直近の朝日嶽城は島津軍の調略で落城しているため、家久は案外すんなりと三国峠を通過したのかもしれない。
第二の戦争・西南戦争
西南戦争は1877年(明治10)に西郷隆盛率いる薩軍が九州地方で起こした内乱である。
ご存知の通り明治政府がじりじりと薩軍を追い詰め、鹿児島にて鎮圧に成功した。
三国峠がある三重町は西南戦争の激戦地で数多の人々が戦死したと云う。
ここに陣を敷いていた飫肥隊士の山田宗賢は、官軍に夜襲をかけられ宗賢を含む11名が討ち取られた。
戦死した飫肥隊士の墓が残っていた。
墓石には以下のように刻まれている。
明治十年六月十七日
日向飫肥隊士族十一名之墓
三国峠ニテ戦死ス
終わりに
三国トンネルが心霊スポットとなった理由。
それは三国峠が古戦場だったからであろう。
ひと気は無く夜になれば真っ暗で不気味でしょうね…。肝試しにはもってこいな場所かもしれませんが、急坂や崖があるため物理的に危険です。絶対おすすめしません。
笹が生い茂る奥地に三塁跡の標柱があった。
もしかしたら他にも何か隠れているかもしれない。
探索したい方は長袖、長ズボン、長靴を装備して向かうと良いだろう。
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