鹿児島市

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東郷平八郎の生涯!彼のゆかりの地を訪れて【鹿児島】

『陸の大山、海の東郷』『東洋のネルソン』『アドミラル・トーゴー』などなど様々な二つ名がある近代日本の窮地を救った英雄・東郷平八郎。東郷平八郎は大日本帝国海軍・連合艦隊を率い、大国ロシアと死闘を繰り広げ、遂には日本を勝利に導きました。今回は主に小笠原長生の【聖將 東鄕平八郎傳】を引用しつつ彼の生涯を追っていきます。
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西南戦争の最期の舞台、城山公園へ

城山には心霊スポットの噂が流れている。武士の霊、少女の霊、子供の霊、トンネルでずぶ濡れの霊などなど、様々な噂があるようだ。あまり認めたくないけれど、城山の戦いでは戦死者が出ているし、彼らは最後の武士であったわけだから武士の霊が出るというのは、なかなか説得力がある。
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桐野利秋誕生地と墓地へ!人斬りと呼ばれた男の人生について【鹿児島】

桐野利秋が主人公の歴史小説【九重の雲】の冒頭。毀誉褒貶と言うけれど、悪いイメージを持っている人の方が多いのではないでしょうか?彼は初め中村半次郎と名乗り活動していました。彼は幕末の四大人斬りの一人に数えられ『人斬り半次郎』という二つ名を持っています。
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『晋どん、もうここらでよか……』別府晋介の人生について【鹿児島】

別府晋介は1847年(弘化4)に鹿児島県吉野村に生を受け、1877年(明治10)に鹿児島県の城山で亡くなりました。先日紹介した桐野利秋は別府晋介の従兄に当たります。幼い頃から二人の仲は良かったそうです。両者とも西郷隆盛の死を見届けて殆ど同時期に亡くなっています。
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『村田新八 西郷と大久保 二人に愛された男』を読んで【鹿児島】

村田新八は幕末から明治初期に活躍した薩摩藩出身の政治家です。1877年(明治10)に起きた西南戦争で西郷隆盛率いる薩軍・第二大隊大隊長として奮戦するも次第に追い詰められ、鹿児島の城山で西郷や桐野利秋、別府晋介らと共に命を落とします。
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寡黙の少将・篠原国幹について【鹿児島】

篠原国幹は薩摩藩の武士、及び陸軍軍人です。戊辰戦争では薩摩藩三番小隊長として鳥羽伏見の戦い、上野戦争、奥羽征伐を転戦。その功績により陸軍大尉、次いで陸軍少将に任命されます。明治六年政変で西郷隆盛が参議を辞職し鹿児島に帰郷すると篠原もそれに追随、1877年の西南戦争で一番大隊大隊長となり奮戦するも吉次峠で銃弾を受け戦死してしまいました。
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涙橋が心霊スポットといわれる所以を涙橋決戦之碑や元文の板碑から探る【鹿児島】

鹿児島の涙橋には悲しい由来があります。江戸時代、刑場に連行される罪人が最後のお別れをした場所がこの橋のたもとだったといわれています。多くの人々が涙を流したことから涙橋と呼ばれるようになりました。という暗い歴史が残っている場所ですのでいつの頃からか心霊スポットとして有名になってしまいました。
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刑場跡か?磔者坂と大石兵六夢物語について【鹿児島】

磔者坂…。『はたもんざか』と読みます。もう、名前からして怖い。同世代の方はわかってくれるかな?『地獄先生ぬ~べ~』という漫画にはたもんばと呼ばれる妖怪が出てきます。輪状の刀が特徴的な超怖くて超強い敵でした。これ以上は脱線してしまうので気になる方は調べてください。ちょっとグロいです。磔は処刑の一つ。
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薩摩島津氏15代目・島津貴久が築城した内城へ【鹿児島】

島津貴久はそれまでの居城だった清水城を出て内城を築城します。貴久の長子である義久もここを居城としました。薩摩藩初代藩主の島津忠恒が鶴丸城(鹿児島城)を築き、そこに移ると内城は使用されなくなり大龍寺が建立されます。大龍の名は島津貴久の戒名『南林寺殿大中良等庵主』と島津義久の法号『龍伯』から取られています。
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ザビエル公園が心霊スポットといわれる理由について【鹿児島】

ザビエル公園がある東千石町には千石取り以上の武士が住む武家屋敷が並ぶ町がありました。所謂上級武士がこの辺りを闊歩していたのでしょう。1908年にエミール・ラゲ神父がザビエルの功績を称えて石造りの記念教会を建てました。エミール・ラゲ神父は日本で布教活動をし聖書の日本語翻訳や仏和辞典を編纂した人物です。
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南郡元町の牛掛灘の古戦場の案内板について【鹿児島】

後醍醐天皇から征西大将軍に任命された懐良親王(後醍醐天皇の息子)は吉野から四国を経由して薩摩に上陸。そして谷山隆信・忠高の一族が守る谷山城に入ります。征西大将軍は九州や四国を平定するための将軍のこと。看板の説明と時代背景を鑑みるに牛掛灘の合戦は、