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日本赤十字社の礎を築いた佐野常民の記念館【佐賀】

佐野常民といえば日本赤十字社の礎を築いた人物として知られています。幕末から明治に活躍した佐賀出身の偉人を総称した『佐賀の七賢人』の御一人でもあります。1877年、西南戦争での惨劇を知り心苦しく感じた佐野常民、大給恒、桜井忠興らは中立な立場から救護を行うことを目的とした団体・博愛社を設立しようとします。
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佐賀藩の祖・鍋島直茂の軌跡。胞衣塚と高伝寺の墓所へ【佐賀】

佐賀の鍋島の御殿様が囲碁を打っているときカッとなって相手を殺してしまいました。殺された人の名前を龍造寺といいます。その死は隠されましたが龍造寺の母がそのことを知り、飼っていた猫に恨みを果たしてもらうよう自身の血を舐めさせ亡くなります。
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水没世帯多数?!北山ダムが心霊スポットと言われる理由について調べたら…。

1957年3月30日、嘉瀬川の最上流域に北山ダムは築造された。『降れば大水、照れば干ばつ』佐賀平野で暮らす人々は昔から洪水と干ばつの被害を耐え忍んできた。佐賀県は山地よりも平野の割合が高いため、大雨が降れば山間部の少ない森林が保水しきれず洪水が発生し、日照りが続けば乏しい保水力が故に干ばつが起こる。
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龍造寺隆信の生誕地と高伝寺境内の墓へ【佐賀】

龍造寺隆信は1529年に肥前国の水ヶ江城で生まれた武将です。龍造寺氏は国人衆として少弐氏に仕えていましたが、隆信の下剋上によって戦国大名まで上り詰めています。肥前国を統一後、更なる勢力拡大を目指し豊後国の大友氏や薩摩国の島津氏と対立するようになりました。
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大財公園が心霊スポットといわれる理由について

写真の石碑が『戦死者を祀る碑』かもしれない。摩耗していて文字は全く読めなかった。1995年から420年前は1575年。肥前の熊こと龍造寺隆信が肥前国を統一するかどうかの時期だった。恐らくは『肥前国内の国人衆を排除するための戦』か『豊後から攻めて来た大友宗麟を撃退した戦』に関する古戦場なのだろう。
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大隈重信や江藤新平が通った佐賀藩の藩校・弘道館跡へ【佐賀】

弘道館は佐賀藩・八代藩主の鍋島治茂が1781年に創設しました。十代藩主・鍋島直正は教育を重要視し弘道館を整備拡張、教育予算を大幅に増額させます。そして学び育った優秀な人材を出自問わずに登用しました。弘道館からの優秀な人材、名君・鍋島直正の先見の明が佐賀藩を他藩よりもいち早く近代化させることに成功します。
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三瀬峠の聾なおし地蔵と国境石について

佐賀新聞に『三瀬峠女性殺人・死体遺棄事件』『三瀬峠OL殺人・死体遺棄事件』とある。当時の新聞を読まないと詳細は分からないが、犯人は捕まらず時効を迎えています。また吉田修一氏の『悪人』という小説に三瀬峠が描かれている。上記事件と同様に作中で女性が殺害され、峠に死体が遺棄されている。
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江藤新平と佐賀の乱について【佐賀】

江藤新平は幕末から明治初期に活躍した佐賀県出身の政治家で、『佐賀の七賢人』、明治政府に貢献した『維新の十傑』の一人に選ばれています。征韓論を巡る政争の結果起きたとされる明治六年政変で下野したのち、佐賀県に帰省し佐賀の乱のリーダーの一人として新政府軍と戦いますが、新政府軍に敗北し捕縛され獄門に処されてしまいます。
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肥前鍋島氏の万部塔と龍造寺家兼ゆかりの六地蔵【佐賀】

佐賀市水ヶ江一丁目に万部塔と六地蔵という史跡があり、その場所は万部島と呼ばれています。万部とは万部経のことで『追善や祈願などのために、万部の経典を読むこと』の意味があります。名前の通り万部島は川(堀)に囲まれた島だったようです。万部読経が行われた島ということですね。
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佐賀城の風景を眺めて。幕末の名君・鍋島直正公について【佐賀】

当主の龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、重臣の鍋島直茂が中心となって龍造寺家を支えます。次第に龍造寺氏の力が衰え始めると鍋島氏が実権を握るようになりました。江戸時代に入ると龍造寺氏が居城にしていた村中城を鍋島直茂・勝茂父子が改修、拡大します。これが佐賀城の始まりです。
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佐賀県立森林公園の千人塚に心霊スポットの噂が流れる理由は?【佐賀】

佐賀県を流れる嘉瀬川下流域にある佐賀県立森林公園。全体的にかなり賑やかな公園ですが、ここだけは『しーん』としたちょっと湿っぽい雰囲気が感じられます。どうやらその一角だけ心霊スポットとして知られているようです。千人塚とは災害地や刑場などで亡くなった多くの命を弔うために造られた塚のことをいいます。